思春期の精神分析に関する本

The Institute of PsychoanalysisのBook of the Monthということでイタリア精神分析協会Società Psicoanalitica Italiana (SPI)の精神分析家 Anna Maria Nicolòの思春期研究の本Developmental Ruptures: The Psychoanalysis of Breakdown and Defensive Solutionsが取り上げられていた。

『発達的断絶(Developmental Ruptures):崩壊と防衛的解決の精神分析』と訳せばいいのだろうか。

2015年のInternational Journal of Psychoanalysisでこの著者のPsychotic Functioning in Adolescence: The Perverse Solution to Survive.「思春期における精神病的機能:生き延びるための倒錯的解決」を読んだことがある。(Nicolò, A. M. (2015) Psychotic Functioning in Adolescence: The Perverse Solution to Survive. International Journal of Psychoanalysis 96:1335-1353

思春期臨床は長く携わっている領域なのでなにかとチェックしているが、今なお基礎となる理論はピーター・ブロスのものだと思う。ニコロも論文でBios P (1979) The adolescent passage: Developmental issues. New York, NY: International UP.を引用している。

さて、The Institute of Psychoanalysisによると、ニコロの著書は思春期ならではの心を様子を発達的観点から再考し、予後やリスク指標に焦点をあてたアセスメントについても論じているとのこと。紹介文にある以下の部分、

Crises in adolescence may mark the beginning of severe psychopathology, but they can also open the possibility for meaningful psychological reorganisation. In this way, developmental ruptures may reveal earlier vulnerabilities while also creating space for new integration and growth.

というのは思春期に限らず少なからず当てはまることとはいえ、思春期における断絶が秘める統合と成長への力は爆発的であるという点でやはり特別だし、思春期の特徴と精神病的な症状を区別することは難しいということでもあるだろう。変容とは潜在していた可能性が形をなすプロセスでもあるがそこには常に(といっていいと思う)危機が伴う。精神分析的治療がそこに対してなにかをするとしたらニコロがいうように慎重な診断は必須である。それも思春期に特別なことではないが、著者は思春期を発達的断絶Developmental Rupturesという危機にある発達段階と捉え、精神病的な発症との区別をしようとしているようである。そしてその場合に必要なのは、これも思春期に限ったことではないが早期介入である。

SPIのYouTubeでニコロたちによる対談、L’ascolto psicoanalitico ai tempi del coronavirusがみられる。イタリア語なのでわからないが、コロナ禍での傾聴について話されているらしい。危機介入という点では思春期への介入と変わらないかもしれない。

せっかくなので本の紹介文をご紹介。誤訳があったらごめんなさい。

「本書は、思春期に適用されてきた診断カテゴリーを発達的視点から問い直し、予後やリスク指標を考慮に入れた新たな評価の枠組みを提示するものである。
成人の精神病理の分類を超えて、Anna Maria Nicolò は、思春期の心を多次元的に捉えるアプローチを提示し、その複雑性を臨床的視点と理論的考察の双方から探究している。思春期における危機は、しばしば発達階固有の課題を逸脱する精神病的過程の開始を示すことがある。しかし他方で、このような発達的断絶は、人格の積極的な再編成の契機ともなりうる。この意味で思春期は、幼少期に潜在していた機能を浮かび上がらせると同時に、新たな統合を可能にする場ともなる。
したがって、患者および家族双方の発達的再編成を可能にするためには、正確な診断と早期介入が不可欠である。本書は臨床事例に基づき、発達的断絶に介入するための実践的かつ理論的な道具を読者に提供する。
『発達的断絶』は、精神分析家、精神科医、発達心理学者のみならず、特に思春期初期や青年期初頭において出現する精神病的発症や危機に関わるすべての専門家にとって関心を引く一冊である。」

以上。

目次は英語版の序文のあとにパート1,パート2がある。

PART 1 はThe adolescent and developmental rupturesということで 1 The adolescent mind 2 The problem of assessment in adolescence 3 Breakdown and developmental ruptures 4 The negated, repudiated, persecutory body 5 Sensoriality and developmental ruptures 6 Fear of breakdown and beyond 7 Developmental ruptures: A transformative pathway 8 Pathological transpersonal links and adolescent breakdownで4章で身体、5章で感覚に焦点化されているのがよさそう。Pathological transpersonal linksも興味深い。

PART 2 は The defence against developmental breakdownで発達的崩壊に対する防衛の諸相が挙げられている。 9 Perverse solutions and perversion 10 Daydreams and their evolutions 11 Martina: Alienation in the other 12 Violence as a defence against breakdown 13 Delusion, secrets and reciprocity 14 The transgender enigma 15 Self-harm and cutting

11章が詳細な事例らしい。

序文を試し読みで読むことができたが、そこで引用されているパール・クレーの文章がいい。On Modern Art(1945)からの引用らしいが邦訳はみつけることができなかった。

Klee then adds that “nobody would affirm that the tree grows its crown in the image of its root,” therefore, “between above and below can be no mirrored reflection” (1945, p. 13).

「木がその樹冠を根の像に似せて育てると主張する者は誰もいない」のであり、それゆえ「上と下とのあいだには鏡映的反映はありえない」と訳せばいいのだろうか。これは「断絶」という言葉では表現できない部分を描写しているように思う。

ニコロが論文でも参照していた思春期臨床の理論家は先述したPeter BlosのほかにMoses Laufer & Laufer、Raymond Cahnがいる。ニコロの序文によると

「Laufer 夫妻は、思春期患者に対して古典的な週4回あるいは5回の精神分析を再び提案することの重要性を繰り返し主張した。その場合、力動は若者の内的世界, とりわけエディプス的な運命を中心に組織されるべきである。」

「これにほとんど対置されるかたちで、Cahn(1991)は、思春期それ自体は、生物学的なもの、心的なもの、社会的なものの結節点を構成しているという。彼は、思春期の危機の治療には次のことが必要だと主張した。すなわち、思春期の若者とその関係システムにとって適切な環境、その若者が学校活動を再開できるような組織、家族内の相互関係を変化させる必要性、そして精神分析的治療に十分な期間を与えることである。」

「Raymond Cahn は、その後期の著書 La Fin du Divan?(2002)において、典型的な治療形態を参照点として維持することの重要性を改めて強調しつつも、Winnicott の影響を受け、セッティングと傾聴について新たな様式を提案している。とりわけ境界状態の患者や象徴化が障害されている患者についてである。こうした状況では、患者のあらゆる変化に敏感な分析家と向かい合う face-to-face のセッティングが好まれるべきであり、その分析家は大きな緊張水準に耐えつつ、辛抱強く患者の機能の再構築を行わなければならない。」

どうやら技法上の違いがあるらしいが、技法上の違いは分析家がたとえ同じ思春期の患者であってもどのような人に会ってきたかに影響されると思うので、彼らの臨床実践も読んでみたい。

と、いずれきちんと読んでもいいかもしれない一冊としてメモしておく。

自閉という軸の導入のために

自閉スペクトラムという軸を精神分析理論に持ち込んだ人たちは色々いるが、それらはクライン派やビオン、ウィニコットの理論の展開と連続したものとして捉える必要があるというか、彼らが残した事例を自閉という軸を用いて再検討することが重要なのだと思う。ベティ・ジョセフのこの論文は題名からしてそういう方向性をもっていると思う。日本語訳がでているが、中古でしか入手できないかもしれない。「理解」って言葉はやっかいね。アブストラクトだけ訳しておく。

Joseph, B. (1983) On Understanding and not Understanding: Some Technical Issues.

International Journal of Psychoanalysis, 64: 291-298.

ベティ・ジョセフ (1983) 理解することと理解しないことについて――いくつかの技法的問題

SUMMARY

This paper discusses some technical problems arising from the diverse ways our patients have of making themselves understood or not understood. It aims to show how patients who have reached the depressive position are able to use understanding in a way that is very different from those in the paranoid-schizoid position. It describes particular methods that the latter patients have of avoiding understanding by splitting and projection and attempting unconsciously to draw the analyst into a type of acting out in the transference. It stresses the importance for the analyst, of listening to the patient in terms of the position from which he is operating, so that contact can be achieved and with it real understanding, as opposed to subtle acting out and pseudo-understanding.

要約

本論文は、患者が自らを理解させようとする、あるいは理解されまいとする多様なあり方から生じる、いくつかの技法的問題について論じている。本稿の目的は、抑うつポジションに到達した患者が理解というものを用いる仕方が、パラノイド‐スキゾイド・ポジションにある患者のそれとは著しく異なることを示す点にある。後者の患者が、分裂や投影によって理解を回避し、無意識のうちに転移においてある種の行動化へと分析家を引き込もうとする、特有の方法について記述している。そして分析家にとって重要なのは、患者がどのポジションから作動しているのかという観点から患者の話を聴くことであると強調する。そうすることで、接触が達成され、それに伴って、微妙な行為化や擬似的理解ではない、真の理解が可能になるのである。

Affect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Life(2000) by Elias Mallet Barrosの一部試訳と私見。

International Journal of Psychoanalysis ,81(6):1087-1099
Affect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Life
Elias Mallet Barros
情動とピクトグラフィック・イメージ― 心的生活における意味の構成 ―
エリアス・マレ・バロス

本論文において著者は、心的生活のなかで新たな意味が明らかにされ、想像され、そしてワークスルーされていく過程を探究し、これらの過程を、情動的経験がイメージという形の無意識的象徴へと変容されることによって表象を生み出す特定の方法と関連づけて論じている。詳細に検討された一つの臨床事例から得られた複数の夢やその他の経験に依拠しつつ、著者は、心的生活において同時に作動する三つの相互に浸透しあう意味の水準を考慮することの価値を主張する。すなわち、隠された意味(hidden meaning)、欠如した意味(absent meaning)、そして潜在する意味(potential meaning)である。「隠された」意味とは、抑圧の力動的形態から生じる意味である。一方、欠如した意味とは、新たな情動的状況が自我に直面するたびに、無意識的な内的対象が心的生活に対して及ぼす充満した圧力から生じる意味である。欠如した意味は、単に無意識の中で待機し、独自の形をとって明示化されるのを待っているものではない。それは、その本性上、部分的に欠如したままであり続けるものであり、完全に意識化されることは決してない。夢においてとりわけ見出される無意識的イメージによって最初に表現されるすべての象徴的構成は、この欠如した意味を捉え、表象しようとする試みである。「潜在する意味」という概念は、欠如した意味の解釈によって生み出される経験を指し、後者の特定の一形態を成している。潜在する意味は、解釈されると、特定の象徴的場において意味を再編成し、新たな経験の可能性を切り開く。それによって、情動的発達の可能性を拡張する新たな意味が創造されるのである。著者のこれらの考えは、オラニエ、ビオン、フェッロ、グリーン、カーンの理論的定式化に依拠している。

導入

カンディンスキーはかつて、セザンヌが木を描くとき、彼はそれを再現しているのではなく、その内的な情動的共鳴を通して、新たな現実においてそれを使用可能なものにしているのであり、そのことがイメージの生成へと至るのだと述べた。パウル・クレーの言葉を換言しつつ、フェディダは次のように述べている──「芸術は、可視的なもの(すなわち、絵画によって把握可能なものを示すのではない。それを意味あるものにするのである」(1996年、204頁)。このように、絵画的イメージの産出としての芸術は、それ固有の宇宙を創造し、それによって現実を生成するものとなる。
木の知覚は、芸術家の内的世界に一定の緊張を生み出す。そこでは欲動や感情が、描かれたイメージを媒介として、まとまりと構造を獲得する。したがって、イメージは情動的経験に形を与えるのである。同様に、分析家はその解釈を通して、情動的状況に関わる無意識的な心的表象を、可視的なもの(イメージの意味において)かつ意味あるものとして提示する。この過程を通じて、患者は異なる象徴領域から意味を再編成し、新たな経験の可能性を切り開くとともに、未完の状態に置かれていた新たな意味を創造する。これらは、情動的発達の可能性を拡張する。したがって分析家の仕事は、抑圧によって隠されてきた意味を暴露すること、あるいは明らかにすることにとどまらない。その本性上、決して明示化されることのない意味の欠如が生み出す内的緊張を解釈することによって、分析家は新たな意味を創造するのである。
フロイトは、人間は出生の瞬間から、当初は身体的体験と区別不能な諸力〔欲動Dränge〕にさらされていると示唆している。これらの力はもっぱら放出を目的としており、その興奮は放出によって消散される。発達過程において、これらの内的力は、象徴的に表象されることによって結びつけられる何らかのメカニズムに従属しなければならない。そうすることで、即時的な放出が回避され、心的領域が確立されるのである。無意識において、これらの象徴はイメージとして表現され、それは夢の中に見出すことができる。フロイトは次のように書いている──「それ〔エス〕は、どこかで身体的過程と直接接触しており、そこから本能的要求を受け取り、それに心的表現を与えているとわれわれは仮定する」(1933年、98頁 正しい訳は『フロイト全集21――1932-37年 続・精神分析入門講義』をチェック)
無意識的イメージは、これらの欲動要求の最初の「心的表現」であり、また無意識的幻想を構成する場面の断片でもある。
無意識的幻想は、欲動要求を心的事実へと変換する自然な過程の一部として生起する。したがって、無意識的幻想は欲動の心的代理物であると正当に言うことができる。
心的装置は、欲動の表象、すなわち心的表現からなるネットワークの上に成り立っている。これらの表現は最終的に、クラインが個人の情動的経験における感情の中の記憶(memory in feeling)と呼んだものの基盤を構成する。ルイス・ハンスによれば、フロイトが「表象」という語を用いるとき、彼は三つの形態を指している。第一の形態についてフロイトは darstellen という動詞を用いたが、これは通常「表象する」「現れる」「構成する」と訳される。この語は、口語ドイツ語において二重の運動を含意している。すなわち、「把握可能な形を与えること」と「示すこと」である(1998年、69頁)。
含意的には、darstellen には第二の意味があり、それは、まだ把握可能ではないものを、言語(感覚的・視覚的・聴覚的・運動感覚的、あるいはその他の)という把握可能な次元へと置き、そこでそれを示すという行為を指している。…これらのイメージ、ならびに表象を構成する他の形態は Vorstellungen、すなわち表象である。これが、フロイトがこの概念に与えた第三の意味である。これらの表象は、「心的再生物」、すなわち記憶に保持されたイメージであり、欲動が結びついている対象や行為を再現し、活性化されうるものである(73頁)。
今日では、表象という概念は、外的現実との相互作用によって機能する内的象徴のコード化された図式を指すものとして理解することができる(Imbasciati, 1998年、76頁)。本論文では、フロイトがこの概念を用いた際に含意していた主要な考えを包含する、この意味で「表象」という語を用いる。心的装置が情動的経験を処理する機能をいかに遂行するかについての仮説において、ビオン(1963)は、乳児がさらされるこれらの初期的圧力に β要素という名称を与えた。これらは身体的なものと心的なものの境界に位置する。彼はさらに、β要素をα要素へと変換する機能を仮定し、これを α機能と名づけた。α要素は、情動的経験の最初の表象形態を構成する。こうして情動は「考えうるもの」という性質を帯びるが、まだ思考そのものではない。このような情動は、原思考(プロト・アイデア)として特徴づけることができる。もしこれらのβ要素が変換されず、思考可能な形態を獲得しなければ、ビオン(1963)によれば、それらは排泄的性格をもつ投影過程によって体系から排出されるか、あるいは身体症状となる。
本論文では、affect(情動)と emotional experience(情動経験)という語を同義語として用いている。フロイト自身も(Green, 1973年、17頁参照)、フランス語で書かれた論文「強迫と恐怖症」において、Affekt という語を「情動状態(emotive state)」と訳したことに言及し、この等価性を正当化している。
この変換を遂行するよう心的装置に働きかける欲動の圧力は、人間を常に、象徴化のために利用可能な道具の不十分さと直面させる。この直面化のなかで、私たち一人ひとりは、内的世界と外的世界の双方においてコミュニケーションを可能にし、外的・内的世界の複雑さを保ったままそれらを把持するために、自らの象徴的世界を拡張せざるをえないのである。
ここで私は、古典的な精神分析セッティングにおいて週4回面接されていた一人の患者のセッションの一部を提示し、その素材を用いて、情動的経験の意味がどのように表象され、変容されるのかを論じたい。また、心的生活の構成において、三つの相互に浸透しあう意味の水準(隠された意味、欠如した意味、潜在する意味)がどのように同時に作動するのかについても論じる。

事例の中心は夢。音の類似性から生み出される解釈とひとつの解釈が事後的にさらなる過去への解釈を導く夢を見させる様子を描写。そのあと事例を素材にした理論的考察がきて最後に再びフェディダの引用。

可視的なものだけが支配することによって言語が脅かされるとき、言語がその支配から解放されうるのは、言葉が、単なる対応関係によってではなく、(情動的な)共鳴によって、一つの感情を別の感情へと変容させる魔術的な力をもっているからにほかならない。
(Fédida, 1992, p. 16)

この事例からここまでいっていいのか、というか、どの事例でもこれはいえてしまうのではないか、という印象はなくはない。バロスのほかの論文でも同様の印象は受けるが“Symbol Formation and Transformation in Theory and in Practice. Canadian Journal of Psychoanalysis 26:222-237(2018)でバロスは以下のように書いている。

「私の患者の一人は、いくつかの夢を私に語った。そこでは彼は突然空中に浮かび上がり、そのまま自由に空を飛び回ることができる――いわば、ありふれた「飛ぶ夢」である、と人は思うかもしれない。しかし私は、これらの夢のイメージがその患者にとっていかに象徴的に複雑で独自のものであったか、そしてそれが私がこの患者と仕事をする際の私自身のレヴェリーにどれほど深く影響を与え、象徴的変形の過程を作動させたかを示したいと思う。」

おそらくこういうことなのだろう。一見、ありふれたイメージが精神分析を行うペア(分析家と被分析者)の作業においては非常に個別的で表層の言葉の意味から離れたものであることをバロスは強調しているのではないだろうか。これも当たり前といえば当たり前だが、この当たり前に大事な観点が実践において忘れられてはいないでしょうか、ということなのではないか。

が、しかし、バロスがオラニエ、メルツァー、ビオン、グリーンらに依拠して使う「情動的ピクトグラム」はたやすく言葉の形をとりすぎているのではないか、とオラニエの書くことを面白いと感じている私は思う。精神分析は、言葉以前のものをどう形にするかということに常に取り組んでいるわけだが、バロスは言葉に対する信頼が厚いのかもしれない。でもこれだと言葉は潜在的な意味をたくさんもっていて、その多様さは解釈によってその人の独自の言葉として現れてきて、その表出が別のなにか、いつか形になるものをさらに生成していくのですよね、分析ってその終わりなき作業ですよね、という大雑把なまとめ方がされかねない、というか、私はしかねない。論文を読むというのは正解を探すことではなく、自分の読み方の癖におさめてしまわないように患者と作業をしてきた著者と対話する試みなのであれこれあれこれしましょう、ということですね。以上。試訳と私見でした。

“Key Ideas for a Contemporary Psychoanalysis Misrecognition and Recognition of the Unconscious” By Andre Greenを読んだり。

“Key Ideas for a Contemporary Psychoanalysis Misrecognition and Recognition of the Unconscious” By Andre Greenを参照しながらそういえばこの本のフランス語の原書名ってなんだっけ、と調べた。

“Key Ideas for a Contemporary Psychoanalysis Misrecognition and Recognition of the Unconscious” By Andre Green は
Idées directrices pour une psychanalyse contemporaine. の英訳か。ちょっと勘違いしていた。

ペレルバーグがフランスの精神分析雑誌Revue française de psychanalyse に書評を書いていた。

Jozef-Perelberg, R. (2005) Idées directrices pour une psychanalyse contemporaine d’André Green. Revue française de psychanalyse 69:1247-1261(2005)

なんとなく訳しておく。フランス語なので自分のメモ用に必要な英語も付け足しておく。

『Idées directrices pour une psychanalyse contemporaine』(Paris, PUF, 2002, 400 p.)は、アンドレ・グリーンの仕事全体に対して、フロイトにおける『精神分析概説(Abrégé de psychanalyse, 1938)』が占める位置と同じ関係にあると考えることができる。フロイトによって切り拓かれた精神分析的アプローチについてのこの堂々たる研究は、ストレイチーがFreud, S. (1938) An Outline of Psycho-Analysis. The Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud 23:139-208の序文(邦訳は北山修「フロイト全著作解説」(2005))で
It should clearly be understood that this is not a book for beginners; it is something much more like a ‘refresher course’ for advanced students.と評したものであり、フロイトの著作全体を旅するものであった。それと同様に、『Idées directrices pour une psychanalyse contemporaine』もまた、アンドレ・グリーンの仕事全体を旅する書であると言えるだろう――この書は、著者の重要な思想の大半を大づかみに提示しているがゆえに、要約することが不可能な書なのである。この書におけるグリーンの思想を論じようとするなら、彼の複数の著作を参照することが不可欠である。というのも、それらの著作は、テーマや思想が相互に交差し、そのつどいっそう大きな射程を獲得していくような、一つの織物を形成しているからである。しかし本書は、単なる要約ではない。著者が五十年にわたって哲学者、科学者、人類学者たちと交わしてきた、博識かつ卓越した対話の報告を通して、新たな省察が付け加えられているのである。2004年9月に、セルジーで(à Cerisy, en septembre 2004)アンドレ・グリーンの仕事をめぐるコロックが開催され、哲学者、人類学者、歴史家、精神分析家が一堂に会したのは、決して偶然ではない。そこでは、現代精神分析の重要な思想家であるこの人物の仕事をめぐって、学際的な出会いが可能となったのである。この書には、多くの思考の萌芽がちりばめられており、思考を継続するよう読者を促す思想が数多く含まれている。たとえば、生きる喜びour pleasure in livingと抑圧されたものの回帰the return of the repressedとの関係(p.179)、あるいは分析的聴取における the phenomena of irradiation (retroactive reverberation–anticipatory annunciation) in analytic listening(p.207)などが挙げられる。もっとも、この書は、アンドレ・グリーンの思想について一般的な概観を得たいと考える人のためのものではない。本書は、提示されている多くの思想が、より掘り下げて論じられている他の著作を参照することを前提としているのである。

本当にそう。ペレルバーグのいうとおり。

項目は以下。なにかがわかると思わず、実践をおもいながら考え続けるために読もう。

Foreword. Preface. Translator’s acnowledgements.

Prolegomena.  Presentation.  A Brief Subjective History of Psychoanalysis Since World War II.

Part I: Practice.

1 The Work of Psychoanalysis. 2 Therapeutic Indications. 3 Setting – Process – Transference. 4 Transference and Counter-transference. 5 Clinical Work: The Organising Axes of Pathology. 6 Psychoanalysis (es) and Psychotherapy (ies): Modalities and Results.

Part II: Theory.

7 Freud’s Epistemological Breaks. 8 Opening the Way for a Renewal of the Theory: Subject Line and Object Line.9 Analysis of the Material and its Components.

10 Space (s) and Time. 11 Configurations of Thirdness. 12 Language – Speech – Discourse in Psychoanalysis. 13 The Work of the Negative. 14 Recognition of the Unconscious.

PARTTHREE (Addendum): Situating Psychoanalysis at the Dawn of the Third Millenium.

15 Philosophical References. 16 Scientific Knowledge.

Provisional Conclusions.

オグデンT.H. Ogden“What Alive Means:Psychoanalytic Explorations”第8章メモ

サンフランシスコで開業している精神分析家、オグデンT.H. Ogdenの最新刊“What Alive Means:Psychoanalytic Explorations”の論文については既に触れた。最近、もうひとつのよしなしごとブログの方で書いたこともこちらに転記しておく。

“What Alive Means: Psychoanalytic Explorations”の8. Discovering a Personal Life: On Winnicott’s “The Capacity to Be Alone”のこと。

ウィニコットの“The Capacity to Be Alone”はオグデンが”creative readings”シリーズの15番目となる論文である。

この章は直訳するとこんなふうに始まる。

””ウィニコットの精神分析への最も重要な貢献の多くは、—例えば、移行対象と移行現象の概念、遊ぶことという経験、あらゆる種類の創造的体験、the feeling of real、生きているaliveことの意味、隔離された核心的自己incommunicado core self、ひとりでいる能力the capacity to be alone、潜在空間potential space、対象の使用the use of an object、そして内的世界と外的世界の領域の外側に位置する第三の経験領域third area of experiencing——これらすべては逆説的思考を伴う。おそらく、この思考形式こそがウィニコットが精神分析にもたらした最も重要な貢献である。

ウィニコットの1958年の論文「ひとりでいる能力」は、彼の逆説的思考の発展において重要な位置を占める。ウィニコットはこの論文で、出版された著作でははじめて「逆説paradox」という用語を用いた。ウィニコットが初めて逆説的思考を用いた『移行対象と移行現象』(1953年)でさえ、彼は逆説という用語を使用していない。18年後に発表した「移行対象」原論文の拡張版(Winnicott, 1971)においてはじめて、ウィニコットは移行対象と移行現象に関する議論に「逆説paradox」という用語を追加したのである。

「ひとりでいる能力」とは逆説的思考の研究である。私の考えでは、この論文を理解しようとするなら、事実上ほぼすべての文章を逆説的に考えながら読まねばならない。そのため、この論文は非常に難しい論文となっている。””

とこのあとに
『完訳 成熟過程と促進的環境 情緒発達理論の研究』所収の「ひとりでいられる能力」の読解が始まる。この論文に興味がある人はオグデンのこの読解も一緒に読むといいと思う。

ここではオグデンが最後の方で書いていることだけ要約しておく。

From the perspective of synchronic time, one would not have to say that the internal environment comes to play the role once played by the external object mother. In- stead, one could conceive of the individual’s past experience of the mother as external object as an impression left on the infant that becomes part of who the infant is (not as an internal object). The concepts of an internal and an external world need not be invoked; instead, one is thinking about past and present experience in relation to who the infant is and is becoming.

””オグデンがいっているのは、ウィニコットは直線的(diachronic)に外的対象である母親が内的環境の役割を果たすようなる、というような書き方をしているが、共時的(synchronic)に母とともにあった経験のimpressionsが、乳児の存在を構成していると考えた方がいいのではないか、ということらしい。その方がウィニコットの “actually to be alone” に含まれる逆説を活かせるのではないかと。””

この本はオグデンの精神分析における時間論の展開である。オグデンの英語は読みやすいのでぜひ。

Ogden, T. H. (2024) Rethinking the Concepts of the Unconscious and Analytic Time.

昨年、Thomas H. Ogdenの新しい論文を読んだ。年末に出たオグデン(T.H. Ogden)の最新刊“What Alive Means Psychoanalytic Explorations”では2章に分けて収録されている。

Ogden, T. H. (2024) Rethinking the Concepts of the Unconscious and Analytic Time. The International Journal of Psychoanalysis 105:279-291

オグデンは「無意識なんてものはない」と強調していた。並行して読んでいるラカンも無意識の概念を更新しようとしているけど彼らの革新性はやっぱりすごいと思う。私は英語もフランス語もその書き方について何かを言えるほどわかってないけどオグデンの語り口の基本的な穏やかさはわかりやすい英語のせいかもしれない。

To say this is not to suggest that we not use the concept of the unconscious,

it is to say that when we use the idea, we should be aware

that it is just an idea- not a place,not a second mind

こうやって区切ってみるとさらにわかりやすい。オグデンはこの論文で無意識を実体としてみることに警鐘をならす。その概念を使うなという意味ではなく、それは単なるアイデアであり、場所でも二つ目の心でもないとオグデンはいう。

要するに、と私が簡単にまとめるのはよくないので結論をざっと訳したものを載せておく。誤訳があるかもしれないので気になる方はご自身で原文をチェックしてほしい。

「フロイト(1900年、1914年)の無意識の概念は、私の分析的思考の中核にあるが、私は今、無意識などという存在は存在しないと痛感している。無意識は第二の心として存在するのでも、意識と無意識に分かれた内的世界の一部として存在するのでもない。無意識はアイデアであり、アイデアでしかない。無意識という実体が存在しないという認識に立つと、私は意識(私たちが経験できるすべてのこと、つまり思考、感情、感覚、そして主体であり客体でもある自分、私であり私であるという経験)に意味が潜在していると考える。文学において、意味は言葉の下や言葉を通してではなく、言葉の中にある。意味もまた、意識の下や背後にあるのではなく、意識の中、つまり私たちがそれについて行う推論の中にある。「別の世界があるが、それはこの世界の中にある」。分析セッションにおける時間の経験は、共時的(「共に」と「時間」を意味するギリシャ語に由来)であると同時に通時的(「通して」と「時間」を意味するギリシャ語に由来)でもある。時間の共時的経験では、すべての時間は、過去が私たち自身に残した印象という形で、今この瞬間に存在する。分析にトラウマを持ち込む患者は、分析者が患者とともにそのトラウマ体験を(共時的に)共同創造し、ともに生きていくことを必要としている。その体験の中で、患者は孤独ではない; そして同時に、患者は分析者が、(通時的な時間において)自分の幼児期のトラウマ的出来事とその後遺症の経験の証人となることのできる別個の人間であることを必要としている。」

さて、オグデンはフロイトが「無意識」論文の冒頭で書いた部分を読み込みながらフロイトがその存在を「明白」と書いたことに反論している。この強調の仕方は主に誰に向けてなされているものなのだろう、と考えたりもするがそれはまた別の話かもしれない。フロイトの「無意識」論文自体、「欲動と欲動の運命」「抑圧」というその直前の二つのメタサイコロジー論文を踏まえる必要があるがオグデンはそれは前提として書いているのでそこには触れない。なのでオグデンを読むまえにフロイトを読む必要があるのはいうまでもない。オグデンの書き方の背景にどれだけの実践と古典との対話が積み重ねられているかを考えるとその途方もなさに驚く。私はオグデンという精神分析家が精神分析実践において患者の実存的なニードを認識する仕方を感じたいだけなので興味がある人はそれぞれ読んでオグデンのnot to convince, but to invite imaginative response.に応えてほしい。

無意識について再考したあと、オグデンはトラウマに対する精神分析実践から精神分析における時間の経験を検討する。この二つの主題のつながりの部分をオグデンは書いていないのでそこにも想像力が必要だが最近の著書で書かれた認識論と存在論に関する議論を踏まえてフロイト、フェレンツィに立ち返りつつ書かれているように私は思った。オグデンは精神分析セッションにおける時間経験をこう書く。

The experience of time in the analytic session is at once synchronic (from the Greek for “together” and “time”) and diachronic (from the Greek for “through” and “time”). 

これをもっとも説明しやすいのがトラウマの事例ということだろう。この議論も表面的に読んでしまわないようにしたい部分である。

今日はここまで。

『精神分析概説』、アンドレ・グリーンのthe negative

『フロイト全集22』(岩波書店)は「モーセという男と一神教」と「精神分析概説」というフロイト晩年の著作が収められている。今日少し取り上げるのは「精神分析概説」(An Outline Of Psycho-Analysis)である。アーネスト・ジョーンズによるとフロイトはウィーンでの最後の時間をこの論文に費やしたそうだが、原稿の冒頭には「7月22日」という日付があり、もしそうだとフロイトは1938年6月にロンドンに到着しているのでその直後に書き始められたことになる。フロイトの論稿に関するこのような情報はジェームズ・ストレイチーによる『フロイト全著作解説』(北山修監訳・編集、人文書院)に収められている。文法上も省略が多く、非常に短縮された形で書かれたこの論稿は未完のままフロイトの死後に出版された。解説書にも書いてあるがこれは上級者向けの論考なので、これまでフロイトを年代順に読んできた読書会のメンバーにお勧めしたい。死ぬ間際までこういうものを書き続けてきたフロイトはもちろんとんでもなくすごいが、世界の著名な精神分析家たちがこれだけ多くの著作を持つフロイトを縦横無尽に引用してくるのもすごい。

先日読んだと書いたアンドレ・グリーンの論文にあったのがこの論稿の一部だった。

読んだのはA .Green ”The Freudian Matrix of André Green;Towards a Psychoanalysis for the Twenty-First Century”の5. Language Within The General Theory of Representation。

「一般表象理論における言語」という論文。グリーンはそこで“God” “is on the side of the big battalions”だけを引用していた。一文でさえない。勉強会では「終わりのある分析と終わりのない分析」の一文だと聞いたがそうだったかな、と思って調べたら「精神分析概説」 (An Outline Of Psycho-Analysis) の第二部実践的課題、第六章精神分析技法の後半にあった。「終わりのある分析と終わりのない分析」にもあるのかもしれないけど私がざっと見直したところにはなかった。

前後を少し足すとこんな感じ。

We shall not be disappointed, but, on the contrary, we shall find it entirely intelligible, if we reach the conclusion that the final outcome of the struggle we have engaged in depends on quantitative relations – on the quota of energy we are able to mobilize in the patient to our advantage as compared with the sum of energy of the powers working against us. 

Here once again God is on the side of the big battalions. It is true that we do not always succeed in winning, but at least we can usually recognize why we have not won. Those who have been following our discussion only out of therapeutic interest will perhaps turn away in contempt after this admission. But here we are concerned with therapy only in so far as it works by psychological means; and for the time being we have no other. The future may teach us to exercise a direct influence, by means of particular chemical substances, on the amounts of energy and their distribution in the mental apparatus. It may be that there are other still undreamt-of possibilities of therapy. But for the moment we have nothing better at our disposal than the technique of psycho-analysis, and for that reason, in spite of its limitations, it should not be despised.

精神分析治療の成功が「量的な関係」、つまり、患者が治療者に好都合な方へ動員できるエネルギーの量と、治療者に抵抗して働くエネルギーの量との比較関係に依存するという話の中で、現時点での精神分析の有効性と限界を示している部分である。グリーンはここでもフロイトの態度というか書き方をまねているのだと思う。

グリーンはフロイト以降、対象関係論の台頭により更新されてこなかった欲動/表象モデルを第二局所論の見直しとともに新たに提示した。フランス精神分析は欲動論を維持しつづけているという点で信頼できると個人的には思っている。彼らはフロイトの経験と理論の内側に住み着くことで精神分析を更新しようとする。読まず体験もせず自分の少ない経験用にそれを改変しようとしたりもしない。人はこれをやりがちだからこそそれに抵抗する人たちは信頼できる。

さて、グリーンは患者が記憶痕跡さえ失い、何も起こらなかったのように言葉を用いることに気づいた。それは抑圧(Verdrängung)で説明できるものではなかった。グリーンは表象不可能なものに突き当たったのだ。そしてその限界を打開するための基盤となったのがthe negativeの概念だったのだろう、と私は理解している。グリーンは、フロイトの「否定(Verneinung)」や「抑圧」を発展させ、この「ネガティヴ(the negative)」 という概念を用いて、表象不可能なものにアプローチしようとした。グリーンが先のフロイトを引用したことから推測できるように、彼は、表象化理論にエネルギー論的、かつ経済論的な「力」(運動といってもいいかも)の概念を加え、それを量的な力と変形のキャパシティとして特徴づけた。それは物表象から語表象へのプロセスで生じた表象の欠如に形象化(figurability, figurabilité)の可能性を探る試みでもあった。形象化が可能なら表象化は可能である。その考えのもとにグリーンは「分析的解釈の目的は、言語が語らないこと(語れないこと)を語らせることである」と述べたのだろう。 「欠如によるトラウマ(default trauma)」「デッド・マザー(la mère morte)」という表現も内在化されたネガティブの現れとして記述することができる。

今日はここまで。

ウィニコット関連で書いたブログ

そのうちきちんとした文章を書くときに使えるように精神分析に関することを書いたブログはこちらにも少しずつ写していく。

アンドレ・グリーンの本とか論文とか。

この2年間、アンドレ・グリーンの論文を読む機会が毎月か隔月のペースであった。アンドレ・グリーンはフランスの著名な精神分析家である。1927年に生まれ2012年に亡くなった。グリーンはここ数年、邦訳もされるようになった。2021年にはジャン・アブラムが編者となった『アンドレ・グリーン・レクチャー ウィニコットと遊ぶ』(原題:Andre Green at the Squiggle Foundation: Revised Edition,2016,Routledge)が邦訳された。この本は「マリオン・ミルナーへの追悼の意を込めて」とある。

最初は自分が訳した論文でもよくわからなかった、というか、今もよくわからないが最初よりはグリーンが何を言いたいのか理解できているように感じる。精神分析の危機を誰よりも自覚し、精神分析の存続を内部から図るべく斬新な思考形態を披露するその文章は非常に難解であり、時にその難解な文章が講演録であったと知り、これでは通じないだろう、と思ったりもするがそれでもグリーンの論文と格闘したあとは少し別の世界が開けた感じになる。精神分析実践とともに精神分析的思考に没頭している人の力は大きい。私もその魅力にはまり、さっき挙げた邦訳も読んだし、Kindleに入っている英訳本を自動翻訳の助けを借りながら地道に読んでいる。グリーンやオラニエなどフランス精神分析において重要な役割を果たした精神分析家たちの本をフランス語で読むためにフランス語の勉強をしているはずがもうひとつのブログに書いた通りサボっていた。

最近、読んだのは
A .Green ”The Freudian Matrix of André Green;Towards a Psychoanalysis for the Twenty-First Century”の5. Language Within The General Theory of Representationと6. The Psychoanalytic Frame: Its Internalization By The Analyst And Its Application In Practice。それと関連してロンドン・レポートと言われる次の論文も読んだ。

Introduction – Why Green? By Howard B. Levineでは各章が簡潔に紹介されておりグリーンの冗長でリズムの悪い文章を読む苦労を和らげてくれる。たとえば第5章Language Within The General Theory of Representationについてのそれをざっと訳すとこんな感じ。

「一般表象理論における言語」は、この言語に関する考察の続きであり、メタサイコロジカルな力作である。現代言語学とその精神分析への関連性、ラカンへの再反論、フロイトの作品における表象の拡大考察、そして現代の精神分析への意味合いについて、深く掘り下げている。 この章は、強い理論的傾向によって動機づけられているが、それにもかかわらず、その直接的な臨床的価値として注目に値する多くの示唆を含んでいる。 夢とその分析に関して、グリーンは次のように主張する: 夢を直接分析することはできない。 夢の内容は、多くの場合、視覚的イメージ、時には音、もっと稀にはその他の感覚のみからなり、知覚や意識とはまったく無関係に湧き上がってきた事物の提示から形成されている。 そのため、その顕在的な内容は、二次加工の助けを借りて言葉に翻訳することはできるが、分析することはできない。 その分析には、夢そのものに関わる解釈が、夢作業のメカニズムのおかげで、演繹によって可能になるように、連想プロセスを誘発するために、言葉の表現における夢の物語を必要とする。 無意識の表象について、彼はこう結論づける: 「無意識の表象は、心的な表象、すなわち身体内部から生じるものと、対象ー表象、すなわち外界から生じるもの、両者からの備給によって形成される混合物、連合、アマルガムによって形成される」。 こうして彼は、欲動と対象はアンサンブルであり、不可分な対をなしていると主張する(Green, 2005)。 欲動は対象を発見し、対象は欲動を引き出す。 そして、フロイトに遡ると、欲動に関しては、欲動は身体的なものに固定されているが、私たちが知らない、知ることのできないかたちで、すでに心理的なものであるかもしれないことを、グリーンは再び私たちに思い起こさせる。 したがって、「分析的解釈の目的は、言語が語らないこと(語れないこと)を語らせることである」。 

面白い。対象関係論が重きを置いてこなかった欲動の側から対象との関係を見直すことはフロイトを基盤にするのであれば絶対に必要な作業と思われるけどそれまで欠けていた何かを強調しようとすれば別の重要なものは背景に退いてしまうという繰り返しが学問に限らず生じるのはしかたないことだ。グリーンはthe negativeの概念を用いてそれまでとは異なる心の作業を記述しようと試みる。そのためにいかに精緻なフロイト再読が行われていることか、そしてのちに離れることになったとはいえラカンから受けた影響の消化、昇華のプロセスにどれだけのエネルギーを割いていることか、グリーンの思考の強靭さは粘ればこちらに自由をくれる。知識として取り入れる類のものではない。筋トレと同じ、という話を先日した。

これらの文献と関連して読んだのはいわゆるロンドン・レポートと言われる1975年の論文。

Green, A. (1975) The Analyst, Symbolization and Absence in the Analytic Setting (On Changes in Analytic Practice and Analytic Experience)—In Memory of D. W. Winnicott. International Journal of Psychoanalysis 56:1-22

これについてもざっと翻訳はしてあるのでそのうち載せよう。

最近の再読:メルツァー『夢生活』

こちらのブログは精神分析に関することを書くつもりだったはず。そんなことから曖昧な記憶だが基本的に精神分析のことしか考えていないのでどこに書いても同じといえば同じ。であればなんとなく毎日書いているもうひとつの雑文ブログで足りているというか、オフィスのWebサイトに載せていること以外に書くこともない。学会発表などはしているがそれはこういうところに書くものでもないのでこういう場は本を書きたい人ととかがその構想をねるために活用するのだろうなあ。私には最初から雑文ブログひとつでよかったのだ。たしか最初のうちはこちらをメインで使っていて、もうひとつを無料で簡単に作れたから作ったらいつのまにかそっちが3年近く毎日続いてしまった。そちらもそんなに書くつもりもなかったのだから自分のことはよくわからないし今後の行動もわからない。

さて、最近、専門的なことで読んだものといえばフロイト以外だとDana Birksted-Breen, “The Work of Psychoanalysis: Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind” (Routledge, 2017)の論文。Birksted-BreenはNew York生まれParis育ちでLondonで訓練をうけた。紹介はこちら→ http://dlvr.it/Pzl4p5 読書会のために読んだ今回の論文はみんなとあれこれ話すまではどんなことが書いてあったか思い出すこともできなかったがだいぶ明確になった気がする。それについてはまた今度。私は精神分析の中心概念はセクシュアリティであるという立場を維持しているのでその点は大変共感する。

私はReading Freudを主催しているのでその勉強のためもあり、フロイトの初期の仕事はちょこちょこずっと触れているが、先日そういえば、とドナルド・メルツァーメルツァーの5冊目の著作『夢生活 ー精神分析理論と技法の再検討』(2004、金剛出版)を取り出してみた。原題はDREAM-LIFW A Re-examination of the Psycho-analytical Theory and Technique,1983、である。堅実ながらも壮大な本でひとりで読むにはちょっときつい。私はこの本の訳者のひとりである福本修先生のクライン派精神分析家の論文を読む会に数年間でていたのでそこでこの本も取り上げられたことがあった。そういう体験が役立っているとはいえ、改めて目を通すとやっぱりひとりでは、となってしまう。でも一度読んでいるわけだからそんな甘えている場合でもないので、フロイト、クライン、ビオンを通過しながら夢の機能について語りつくさんとするメルツァーにがんばってついていこう、とちょっと再読。最初に引用されるのはチョーサー。私はこういう引用でしかチョーサーは読んだことがないがこういう導入をサラッとするメルツァーはとてもスマートでセンスがいいと思う。この本は内容も夢に絞られているし『クライン派の発展』(The Kleinian Development,1978)で熱くなされたフロイト、クライン、ビオンの再検討よりは読みやすく理論的変遷もしっかり追える。今や教える立場となっている私には大変ありがたい本である。メルツァーはフロイトの理論は基本的には「心と脳を等置する神経生理学的な心のモデルに」根ざしているとして議論をはじめるのだがこの語り口の豊かさは大変魅力的。かなり詳しく検討していて、そういえば精神分析は夢こそが「無意識への王道」だったはずでは、と思わざるをえない。しかしちょっと調べたら金剛出版のHPにはもう載っておらず絶版かも。なんということでしょう。まあ、精神分析はマニアックな学問でありマイナーな治療法なのでしたかないか。興味のある人は古本で探してくださいね。

ウィニコットの会始動?

2024年11月に精神分析学会で発表をおこなった際、ウィニコットの「環境としての母親」について言及した。多くの人が聴きにきてくれてわりと反響もあってありがたかった。本や学会誌に書いたものに対して直接反応をもらうことは少ないのでその場でViViDな感想や質問をもらえてよかった。私がいつも引用するウィニコットはクラインほどわかりやすくないし、引用も難しい。正確に引用しなくてもなんとなくそれっぽいことがいえてしまう曖昧な書き方であるのも難儀だ。しかし私はウィニコットを読めば読むほど彼の曖昧な立ち位置に潜む精神分析の新しい視点を見出す。今回の学会発表もウィニコット理論をそのまま適用するというよりもし「環境としての母親」というものがあるとしたらそれはどう立ちがってくるものなのか、という観点から考察を加えた。オグデンの新刊におけるウィニコット読解も私のモチベーションの元となった。そこそこの反響を得て思い立ったのはウィニコットを精読することで何か書きたくなった人たちの対話である。誰かが教える立場に立つのではなく、それぞれが精読し、それぞれの臨床体験をもとに、理論と臨床の接地を図る、そういう会を立ち上げた。まずは単発で。単発の回はウィニコットの『遊ぶことと現実』に収められている「移行対象と移行現象」の最終稿(Winnicott, D. W. (1971) 1. Transitional Objects and Transitional Phenomena. Playing and Reality 17:1-25.) を精読し、そこを起点にそれぞれの臨床事例とそこからの理論化を図る。もちろんこの論文だけで何かを言うことは難しいがこれをきちんと読むことはその他のウィニコットの文献を読むときにも助けになる。まずは私の各種グループに参加してくれる人でこの趣旨でやってみたいという人たちを応募した。私の小さなオフィスでやるには少し窮屈だがよい感じで集まった。議論を楽しみに私も準備しようと思う。この会が次につながる回になることを願って。

2025年度初回面接事例検討グループとReading Freud

Ⅰ【事例検討グループ】

インテーク、初回面接から契約に至るまでの流れを丁寧に検討するための
事例検討グループのメンバーを募集します。
症例をお持ちの臨床家の方向けのグループになります。

日時は、2024年4月〜12月の年8回 (8月を除く)
①第2日曜日
②第4日曜日
9時半〜12時 場所は岡本のオフィスです。
8回4万円です。

2時間を事例検討に、30分を振り返りの時間に当てます。
おひとり2回か3回、事例を発表していただく機会があります。

《使用するテキスト》
初回面接入門 心理力動フォーミュレーション』妙木浩之著 岩崎学術出版社
短期力動療法入門』金剛出版

Ⅱ【2025年度Reading Freud】

2019年度から自分のオフィスで続けているフロイトの著作を読む会です。

【Reading Freud】
臨床経験をおもちの方で、基礎セミナーなどの受講を終え、さらにフロイトの著作の精読に取り組みたい方にお勧めです。
フロイトの時代には自明であったものやフロイトが仮想敵としたものについて解説を加えながら、精神分析臨床がそもそもはどのようなアイディアに基礎づけられたものかを追ってみましょう。自らが臨床でなにを行っているのかの議論にもつながる貴重な機会になるかと思います。

【方法】
①各論文を1パラグラフずつ番号を振ります。
②ひとりずつ順番に声に出して通読します。
③内容を精神分析の歴史に位置づけつつその書き方や現在における意義について議論します。

【使用文献】

「心理学草案」—『フロイト全集 第3巻 1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』(岩波書店)所収

【常に参照したい文献】
『フロイト症例論集』『フロイト技法論集』(岩崎学術出版社)
『メタサイコロジー論』(講談社学術文庫)

場所:岡本亜美のオフィス
曜日:4月から2月(8月を除く)の第4土曜日
時間:19時から21時
料金:全10回、1万5千円
です。

【専門家向け】メンバー募集中です。

Ⅰ【事例検討グループ】 メンバー募集中

インテーク、初回面接から契約に至るまでの流れを丁寧に検討するための
事例検討グループのメンバーを募集します。


第2日曜グループと第4日曜グループの2つのグループがあるのですが
第2日曜グループに1名募集中です。
症例をお持ちの臨床家の方向けのグループになります。

日時は、2024年4月〜12月の年8回 (8月を除く)
①第2日曜日
②第4日曜日
9時半〜12時 場所は岡本のオフィスです。
8回4万円です。

2時間を事例検討に、30分を振り返りの時間に当てたいと思います。
おひとり2回か3回、事例を発表していただく機会があります。

《使用するテキスト》
初回面接入門 心理力動フォーミュレーション』妙木浩之著 岩崎学術出版社
短期力動療法入門』金剛出版

【2024年度Reading Freud】 メンバー募集中

私が2019年度から自分のオフィスで続けているフロイトの著作を読む会のメンバーを募集します。
精神分析的臨床に関心のある方にご周知いただけましたら幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

【Reading Freud】
臨床経験をおもちの方で、フロイトの著作の精読に取り組みたい方にお勧めです。
フロイトの時代には自明であったものやフロイトが仮想敵としたものについて解説を加えながら、精神分析臨床がそもそもはどのようなアイディアに基礎づけられたものかを追ってみましょう。自らが臨床でなにを行っているのかの議論にもつながる貴重な機会になるかと思います。
ご参加お待ちしております。

【方法】
①各論文を1パラグラフずつ番号を振ります。
②ひとりずつ順番に声に出して通読します。
③内容を精神分析の歴史に位置づけつつその書き方や現在における意義について議論します。

【教材】
『フロイト症例論集』『フロイト技法論集』(岩崎学術出版社)
『メタサイコロジー論』(講談社学術文庫)

場所:岡本亜美のオフィス
曜日:4月から2月(8月を除く)の第4土曜日
時間:19時から21時
料金:全10回、3万円
です。

お申込み、お問合せは私のオフィスのWebサイトのお問合せフォームhttps://www.amipa-office.com/
あるいは ami3office@gmail.com にお願いいたします。
ご参加お待ちしております。

雪降る夜に―フロストとオグデンー

積もりゆく雪を眺めながらロバート・フロストの詩を二篇思い出した。ひとつはStopping by woods on a snowy evening(1923)、もうひとつはDust of snow(1920,1921,1923)である。東京の雪はややおおげさなほど警戒されながらもあっさりと溶けた。子供たちは少し残念だったかもしれない。私は少し残念だった。

ロバート・フロストのStopping by woods on a snowy eveningは誰もが知っていると言われる詩だ。曲をつけられたものも検索すればすぐにみつけることができる。私も検索してみた。弱強4歩格の韻律でシンプルに進むこの詩は声だけがgood enoughと感じた。ロバート・フロスト自身の声で朗読がきけるのはこちらのサイトリール(Robert Frost reads
Stopping By Woods on a Snowy Evening)とかYouTubeとかアルバムとか。

サンフランシスコで精神分析実践を行うトーマス・オグデンはフロストを好んで引用し、その解釈を行ってきた。オグデンは近著”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility”の8章 Experiencing the Poetry of Robert Frost and Emily Dickinson.でも詩を読むことについて書いている。彼はここでも分析実践との関わりの問題はともかく、という様子で書き始める。彼がここで求めるのはいつも通り「導かれて夢見ること」(Borges,1970 )なのだろう。オグデンはここでロバート・フロストとエミリ・ディキンソンの詩の読みを示すことで読者にもまじりけのない喜びと驚きを体験してほしいという。

オグデンの体験の示し方はこれまでの著作と変わりない。たとえばフロストのStopping by Woods on a Snowy Eveningはこんな感じで読まれる。原著をどの程度引用してよいかわからないのでざっくり訳してしまっているところもあるが「こんな感じ」を示せたらと思うので拙訳を載せておく。

この詩の最初の行、「この森の持主が誰なのか、おおかた見当はついている」は完全な文であり、この行を権威づけている。しかし、その権威は行の最後の言葉 “I think I know.” によって同時に覆されている。(現在時制を使うことで、この詩には緊迫感と静かな激しさが宿る。私たちはそこに、語り手と共に夜の森のなかにいる。)2行目の「もっとも彼の家は村のなかだから」は、この時間、持主は不在である(彼の家は街にある)という形で、広大な暗闇の中にひとりでいるという体験に身を沈めつつある一連の気配を効果的に示している。第2節の最終行に到り着くまでには、(この詩のタイトルにある)「雪の夜」”Snowy evening”という言葉の柔らかさは「一年じゅうでいちばん暗いこの晩に。」”The darkest evening of the year.”というはるかに不吉なものに取って代わられる。

オグデンはこんな感じで詩を読み進めていく。ちなみにオグデンはthe villageを原文のまま引用しているが自分の文章にするときにin townとしているので訳も「街に」とした。それはともかく、オグデンの書き方、読み方に関心のある方にはぜひこの続きを読んでほしい。ここからのオグデンの創造力あふれる読みにはインパクトがあった。
こんな感じでこの二篇を読んだあと「フロストとディキンソンの詩を読むとき、私たちは彼らの喜ばせることへの拒絶、そして繊細さと押し潰されそうな力の組み合わせを体験する、つまりフロストの詩によって、死に直面したときの抗議のくだらなさの体験を、ディキンソンの詩によって、死という全く無機的な必然を前にして、絶望にしがみつこうとする衝動のくだらなさの体験をするのである。」とオグデンは述べる。
1946年に生まれ、長い間、精神分析実践において患者の声をきき続け、書き続けた精神分析家の実感でもあるのだろうか。そういえばフロストもサンフランシスコ生まれだ。同じ土地の空気を知っている二人を想起させたのがほとんど降らない東京の雪だったとは。とは?偶然ではあるがこれが詩の力なのかもしれないな、と思った。

2024年度『Reading Freud』メンバー募集中

私が2019年から続けているReading Freudの新規メンバーを募集中です。

フロイトの重要論文を精読する小グループの読書会です。臨床経験をおもちの方で、フロイトの著作の精読に取り組みたい方にお勧めです。

この会ではフロイトの時代には自明であったものやフロイトが仮想敵としたものについて解説を加えながら、精神分析臨床がそもそもはどのようなアイディアに基礎づけられたものかを追ってみます。そのプロセスは自らが臨床でなにを行っているのかの議論にもつながる貴重な機会になるかと思います。

私が解説をします。また、このグループは率直に意見を出し合える雰囲気なので難しくとも面白いと思えると思います。これまでご参加くださったメンバーはみなさん、その後、専門的なトレーニングに入ったり次のステージに入られています。フロイトを読むということは精神分析に対して何らかの態度を形成する重要なプロセスとなるのでしょう。

2023年度は藤山直樹先生監訳の『フロイト技法論集』を読んでいます。

来年度は『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』に戻ろうと思います。今後は藤山先生監訳の「症例論集」「技法論集」、十川幸司先生訳の「メタサイコロジー論」を中心に読んでいく予定です。

精神分析は常にフロイトに回帰することを求めます。精神分析的臨床を志す方にはぜひご参加いただけたらと思います。

【方法】
①各論文を1パラグラフずつ番号を振ります。
②ひとりずつ順番に声に出して通読します。
③内容を精神分析の歴史に位置づけつつその書き方や現在における意義について議論します。

【教材】
『フロイト症例論集』『フロイト技法論集』(岩崎学術出版社)
『メタサイコロジー論』(講談社学術文庫)

お申込み、お問合せは私のオフィスのWebサイトのお問合せフォーム
あるいは ami3office@gmail.com にお願いいたします。
ご参加お待ちしております。

IPAの訓練とレイ・アナリスト問題参考文献

以前、雑文ブログの方に書いたが訓練に関わることなのでこちらにも載せておく。

ラカンがSPP(パリ精神分析協会)の分裂によりラガーシュ一派としてSFP(フランス精神分析協会)の訓練分析家になりセミネールをはじめた頃のことを調べていたらIPA(国際精神分析協会)の訓練に関してレイアナリスト問題と絡めて論じたいい論文を見つけた。

IPAは1910年に設立された。所属する分析家が増えるにつれて制度化は求められ国際規格の訓練の義務化が動き出した。1925年バート=ホンブルクBad Homburgでのコングレスでのことだ。

IPAでの訓練は現在、Eitingon, French and Uruguayanの3つのmodelがIPAのトレーニングの基盤をなす。ちなみにこれは地理的な区分ではない。

私が今回見つけたのはこの前史、つまり1925年バート=ホンブルク以前のトレーニングを巡る状況と、バート=ホンブルグ以降、Eitingonが主導したトレーニング委員会(International Training Board (のちのITC)が成した仕事をレイ・アナリストの問題と絡めて論じた論文だ。

Schröter, M. (2002) Max Eitingon and the Struggle to Establish an International Standard for Psychoanalytic Training (1925-1929).が非常に参考になった(IPAジャーナル83:875-893)

制度化はこんな感じ↓で動き出したらしい。

A new chapter in the history of psychoanalytic training began in 1925 at the Homburg Congress with a ‘Preliminary discussion of the question of analytical training’, convened by Eitingon. This led to the Congress decision that all the branch societies should elect a training committee and that the committees should combine to form an ‘International Training Commission’, to act as the ‘central organ’ of the IPA for all questions relating to psychoanalytic instruction (Int. J. Psycho-Anal., 1926, p. 141).

ただPreliminary discussion予備討論やcentral organ中央機関の設立がいつ、誰によって構想されたかは明確ではないとのこと。草案から今に至るまでさまざまな経緯があるわけでラカンはフランスでその影響をうけたわけだ。

ちなみにレイ・アナリスト問題というのは常に重要で以前から何度か「素人分析の問題」が収められた『フロイト全集19』の月報で國分功一郎さんが書かれた文章を紹介してきた。今はブログでは読めなくなっているようだが昨年出版された十川幸司 、藤山直樹 編著『精神分析のゆくえ 臨床知と人文知の閾』(金剛出版)の第1章でより詳しく國分さんの考えを知ることができる。この本は精神分析家の藤山直樹先生と十川幸司先生が主宰する小寺記念精神分析研究財団の学際的ワークショップ「精神分析の知のリンクに向けて」を書籍化したもので第二回「『素人分析の問題』をめぐって」は第1章「素人分析の問題」で論じられているのでぜひ。

精神分析と精神分析的心理療法について

オフィスのサイトをちょっとずつ見直しています。精神分析と精神分析的心理療法についての説明はこのままでもいいかもと思ったのでこちらにもそのまま載せておきます。この二つの方法の違いに関する説明もこのままでもいいかもと思ったので下に繋げておきます。

ーこんな場合にー

人は誰でもなんらかの違和感や不自由さを抱えています。
それがあまり気にならない方もいれば、それらにとらわれて身動きが取れなくなっている方もおられるでしょう。

当オフィスでは、もしそのようなことでお困りの場合、ご自身のとらわれについて考え、変化をもたらしていく方法として精神分析、あるいは精神分析的心理療法をご提案することがあります。

ーたとえばー

たとえば、いつも自分はこういう場面で失敗する、いつも自分はこういう人とうまくいかない、と頭ではわかっているのに苦しむばかりだったり、その結果、不安や抑うつなどの症状を呈したり、なんらかの不適応をおこしている場合、かりそめの励ましやその場しのぎの対処ではもうどうにもならないと感じていらっしゃる方も多いでしょう。

そのようなとらわれたこころの状態から自由になりたい、別の可能性を見出したいとお考えの方に精神分析的心理療法はお役に立つと思います。 

ー方法ー

この方法は、自分でもよくわからない自分のこころの一部と出会うために、こころの状態に耳を澄まし観察してみること、そして頭に浮かんできたことを特定の他者にむけて自由に言葉にしてみることを大切にします。 

ひとりではなく他者とともに、みなさんがより自分らしく生活していくためにそのような時間と場所をもつことはきっと本質的な変化と新しい出会いをもたらしてくれることでしょう。 

ーアドバイスは難しいー

同時に、この方法は、考え方や対処方法にいわゆる「正解」があるとは考えていないことを示してもいます。
そのため即効性のあるアドバイスを必要とされる方にはお役にたてないと思います。

アドバイスというものはとても難しく、「一般的にはこうかもしれない」ということはお伝えできても、単に個人の主観的な意見を押し付けてしまう危険性を孕んでいるように感じます。 

法律に反することなどはお互いのために禁止事項になりますが、生き方、考え方については誰かが答えを持っているわけではないと私は考えております。 

そのため、問題を整理したうえで一般論をお伝えすることはありますが、それ以上のアドバイス、ましてや「即効性のあるアドバイス」は難しいと思うのです。 

ー定期的で継続的な時間を必要としますー

また、精神分析的心理療法の場合、ある程度長い期間、定期的で継続的な時間を維持することが必要になるため、お受けになる方にも一定の時間を確保していただく必要があり、それに伴うお金も必要になります。

ー別の方法をご提案させていただくこともありますー 

このようにコストがかかるうえに、これまで知らなかった自分の一部と出会い、情緒的に触れ合うプロセスは決して楽ではないため、状況や状態によっては負担が大きく、ご希望されても始めないほうがよい場合もありうるでしょう。

そこで、ご自身の現在のこころの状態が必要としているものを明らかにするために、最初は見立てのための面接を数回行うことにしています。 

そのうえで精神分析あるいは精神分析的心理療法をご提案することもあれば、別の方法をご提案したり、別の機関をご紹介することもあります。

まずはそれぞれのお話によく耳を傾けることから始めたいと考えています。

ー精神分析と精神分析的心理療法の違いー

私は日本精神分析協会の精神分析家候補生です。
つまり、まだ精神分析家ではなく、訓練中の立場にあります。

それでは「精神分析家」とは一体どんな人のことをいうのでしょう。
ご参考までに日本精神分析協会のHPをお借りしてみます。
http://www.jpas.jp/whois.html

いかがでしたでしょうか。
精神分析家になる道のりはなかなかに困難です。
そのため、精神分析家の人数も少ないです。
そもそも、精神分析は以前からそんなにメジャーな治療法でありません。

精神分析をご検討される場合は、私が候補生として所属する日本精神分析協会のHPもお読みいただきたく存じます。
→精神分析をご希望の方へ

次に精神分析と精神分析的心理療法の違いについても触れておきます。

これらは、二人だけのプライベートな空間で、様々なこころの状態について話せる場所として役に立つ、という点では変わりありません。
また、精神分析も精神分析的心理療法も、他者とともに未知なる自分の部分を探索し、ご自身のこころにゆとりを取り戻すために、多くの方に役立ちます。

それでは、何が異なるのでしょうか。
治療者側に訓練が必要であることは前提として、
ひとつは頻度と方法です。
精神分析は週4、5回、同じ曜日、同じ時間にいらしていただき、カウチで自由連想をする、という方法で、密にセッションを積み重ねていきますが、
精神分析的心理療法は、多くの場合、週一回の頻度で対面で行われます。

頻度や方法が異なるとそこで生じることも当然違いが出てくるわけですが、
精神分析の頻回な設定の場合、日常を過ごすこころを今ここの治療場面にうつしとることが自然に生じるので無理がなく、普段は見過ごしがちなこころに微細な動きにも注意を向けやすくなります。

一方、精神分析的心理療法には、「いつもの月曜日」という程度には日常性が含まれているとはいえ、精神分析のように、日常が作りだす不毛さやそこに潜在しているはずの可能性が自然に見いだされることは少なく、無意識というより意識、つまり、日常そのものに比較的色濃く現れるパターンや反復という「意識できるこころ」をご一緒に観察していくことになります。

どちらの技法もそれが適応かどうかは数回のアセスメント面接によって判断されます。

オフィスのウェブサイトを更新しました。

こちらへの投稿は久しぶりです。ご無沙汰しております。5月も後半になって新しい環境にも少しなじんできた頃でしょうか。保育園を巡回していてもようやく落ち着いてきたという声を聞きます。関係も密になればどちらかだけに余裕があるということはあまりなくお互いに巻き込みあってざわざわしたりもやもやしたりしますが、まずは物的な環境になれていくというのが大事かもしれないですね。

さていつなにを登録したのかよくわからなのですがGoogleからウェブサイトへのアクセスが増えているというようなメールがきました。おめでとう、みたいな感じでしたがそんなめでたいことではないでしょと思いつつあまり手入れをしていないウェブサイトを見直してみました。

精神分析をご希望の方はこれまで通り、日本精神分析協会のウェブサイトと合わせてお読みいただきお申込みいただけたらと存じます。

https://www.amipa-office.com/cont1/45.html

私のオフィスは京王新線初台駅東口が最寄りですが、JR新宿駅から徒歩で来られる方も多いです。南口から15分くらいなので電車を待ったりする時間を考えるとそのほうが早いというのもあるかもしれません。あとは小田急線参宮橋駅、大江戸線都庁前駅からも徒歩10分くらいです。渋谷からだと京王バス「宿51」の「西参道」が最寄になります。

ということでウェブサイトのなかの「オフィスまでの景色」のページを更新しました。これまでも写真を載せていたのですがサイトを作るための手順がよくわかっていなくて写真へのリンクを削除してしまいました。なのでとりあえず周辺施設をご紹介したのと、初台駅東口改札をでたあとのルート、そして最近新しくなった西参道(明治神宮への参道です)の写真を載せなおしました。適宜加筆修正していくつもりです。

どうぞよろしくお願いいたします。

【東京公認心理師協会地域交流イベント】大田区・世田谷区に登録している皆様へ

8月に東京公認心理師協会の地域活動としてイベントを企画しました!

2019年2月に東京臨床心理士会から名称変更された東京公認心理師協会では1997年から地域ブロックでの活動を進めてきたものの当初の「会員相互のコミュニケーション、地域におけるネットワーク形成」という目的はなかなか達成されにくかったようで2016年度から新たな形での地域活動を開始することになったそうです。「一般社団法人公認心理師協会 地域活動要項」の日付は2019年3月11日となっているのでその間にも試行錯誤があったのだと思います。

新たな目的は1、地域における社会貢献活動の実現、2、会員相互のネットワークの形成だそうです。

2021年11月の時点での東京公認心理師協会の登録人数は区部3540人、区以外1349人、計4889人ということで今回私たちが地域活動の対象とするのは開催地である大田区(155人)、私の登録地域である世田谷区(453人)です。ちなみに私のオフィスがある新宿区の登録人数は214人。近いうちに新宿区でも何かやりましょう(>新宿区の心理士(師)のみなさん)。

臨床心理士と公認心理師が協力して東京に暮らす方々に向けて心理支援を普及、充実させていくことは協会の基本姿勢ですが、「地域」という視点は、地域に根付いた子育て支援のNPO活動を長く行なってきた私にとっても欠かせないものです。スクールカウンセラーをしていた頃も当時の「地域会」という横のつながりには本当に助けられました。

協会の地域活動推進委員会からのお知らせが入った封筒がきた頃、ちょうど私と同じく個人オフィスで高次脳機能障害のピアグループを開催している松岡宮さん(公認心理師、詩人でもあられます!)と知り合い、イベントの話を持ちかけてみたところあっさり決定。

最初は川柳会のトップランナー、とてもユニークかつオープンな20代の柳人暮田真名さんをゲストにお迎えしてのイベントを企画しましたが、協会の地域活動には外部講師を招くという設定がなかったため、そちらは私と松岡さんの協働イベントとして別立てて計画しました。そちらも近いうちに告知いたしますので楽しみにお待ちくださいませ(参考までに2022年6月2日「好日好書」)。

今回は、東京都大田区、世田谷区に登録されている臨床心理士・公認心理師の方に向けて以下のイベントを企画しました。テーマは「言葉の可能性を探る」~心理士(師)が地域でひらかれるために~ です。それぞれの臨床において「使われている言葉」について少人数で改めて振りかえってみようと思います。そうやって「あえて言葉にしてみる」ことで無意識的に用いてきた言葉にも新たな意味を見出せるかもしれません。あるいは当たり前のようにしてきた言葉の使用に関する工夫を「あえて言語化」し共有することでより良い工夫が可能になるかもしれません。「あえて言葉にしてみる」ことの大切さや難しさを再確認しながら、お互いに通じる言葉、相手に開かれた言葉の使用について話し合えたらと思っています。

詳細は以下の通りです。ご参加お待ちしております!

【日時】 2022年8月7日(日)10:00~12:00

【会場】 蒲田寺子屋(〒146-0095 大田区多摩川1-21-21)

(東急多摩川線「矢口渡」駅 徒歩2分)

【テーマ】「言葉の可能性を探る」~心理士(師)が地域でひらかれるために~

【対象】臨床心理士/公認心理師 10名程度

【参加費】無料

【申込み先】kamataterakoya@live.jp (蒲田寺子屋 松岡)

【内容紹介】日々の臨床を行いながら詩や俳句をたしなむ二人の心理士(師)が出会い、「言葉」を軸にしたユニークな地域イベントを企画しました。

それぞれの臨床活動を「使われている言葉」という観点から振り返り、用いている言葉への気づきや共有を通じて心理士(師)同志の交流をはかります。

また地域でピアサポートの場として用いられている空き家で開催することで、このような小さな場を用いての心理的支援の新たな可能性も同時にさぐってみたいと思います。

詩や俳句に正解はなく、形式を逸脱することが許されます。その寛容さはVUCA時代の心理的支援において必要とされる側面であるかもしれません。どうぞお気軽にお申し込みください。

企画代表者名:岡本亜美 ami3office@gmail.com

共同企画者、連絡係:松岡恵子

前の二つの記事を修正しました

日本臨床心理士資格認定協会は「公益財団法人」のため私たち臨床心理士は「登録者」(「利用者」でもいいと思う)であり「会員」ではない(払っているのは登録料であり総会とかもないですものね)ということで関連記事を修正しました。

修正箇所は取り消し線を引いた形で残してあります。

日本臨床心理士資格認定協会「教育研修機会」に関して思ったこと

https://aminooffice.wordpress.com/2022/03/10/

日本臨床心理士資格認定協会「教育研修機会」に関して思ったこと②

https://aminooffice.wordpress.com/2022/03/20/

日本臨床心理士資格認定協会「教育研修機会」に関して思ったこと②

3月10日のブログで、3月1日に出された日本臨床心理士資格認定協会からの公告に関して、タイミングと研修方式の観点から雑感を述べた。その後、盛り上がったらしいSNS上での議論の多くには目を通していないが、資格更新(資格更新制度についてはこちら)の時期が近い方の懸念やそれに対応するやりとりをいくつか見かけた。私は昨年度、オンライン研修のおかげでギリギリ資格更新できてしまったせいか資格更新に関しては焦りはなかったが、やはり「なんで今」という疑問に突き動かされてああいうことを書いたのだと思う。「やはり」というのは、それ以前に違和感が生じていたところに「え、また!?」という驚きが重なったということである。最初の違和感は2022年1月12日に出された「第30回心の健康会議(沖縄)」のお知らせに対してだった。これまでお恥ずかしいことに資格認定協会の動きに対して受身的にしか注意を払ってこなかった私でもこれには驚いた。「なんで今、現地で!?」

お知らせには「開催地の沖縄県に令和4年1月9日からまん延防止等重点措置が実施されている現状に鑑みて、第30回心の健康会議の開催に変更が生じる場合があります」とあった。何を言っているのだろう、としばし思考停止した。私たちはこの2年間、できるだけ移動しない、集まらないということを守ってきた、自分と相手の命のために。そう、これは命の問題だということで多くの職種の皆さんが制限を加えられた。その結果、職や家を失い別の場所へ移動せざるをえなかった方々と私たちは現場でお会いしてきたはずである。会員臨床心理士の中にも県を跨いで通勤することができず、その間無給で過ごした方もいたときく。また、移動の難しい入院患者のいる病棟でクラスターが発生したときの臨床心理士の苦悩も聞いた。それらは耳に届いていなかっただろうか。

ちなみに私が住む東京都は令和4年1月21日(金)0時から重点措置が実施され、先日、3月21日(明後日)でそれがようやく終了することが発表された。

繰り返すがそんな中で臨床心理士資格認定協会最大規模(定員1500人を超えるのではなかったか。今回はもっと少ない定員だったりしたか。だとしても)の集まりを現地で開催する予定とは…。驚いた。前回書いたように移動や集会の自由は誰にも奪えるものではない。しかし現実検討は私たちの仕事の基礎でもあるはずだ。もしかしたら認定協会は現状の認識と分析、今後の展望に関してあまりに主観的、楽観的なのでは、いや、私も大変お世話になっている現場でご活躍の先生もおられるのにそんなことは、など思っていた2月3日、「〈こころといのち〉の安心・安全を第一義とする臨床心理士と公益財団法人として、まことに残念ながら【開催中止】を決断しましたことを緊急に公告します。」というお知らせがあった。

そして今回の第一報(3月1日)、第二報(3月15日)である。私には短期間で同じタイプの出来事が生じたように思えた。「なんで今?(現実の状況はどこへ?)」という問いが再び頭をもたげた。

第一報(3月1日)の「公益財団法人 日本臨床心理士資格認定協会から 臨床心理士の皆様へ 〈重要公告:令和4年度に臨んで〉」はSNS上の臨床心理士をざわつかせ、2週間後に第二報(3月15日)「New「『オンライン研修』についての基本方針」(令和4年3月1日付)等へのお願いと当面の対応について」が出された。協会のスピーディーな対応は、多くの会員臨床心理士の関心と行動力におされてのことだと思う。声を上げることはやはり大切なのだ。すでに後進を育てる世代になった私にとってそのこと自体は喜ばしかった。なのでなおさら思うのだが、コロナ禍という世界規模の未曾有の事態から私たちはもっと謙虚に学び、慎重に、丁寧に動くべきではないだろうか。そのためにも今回のようなシステムの変更に関してはそのプロセスは会員利用者である臨床心理士に向けて開示されるべきではないだろうか。私たちには知る必要も権利もあるように思う。

以前、ブログで「斎藤環著『コロナ・アンビバレンスの憂鬱 ー健やかにひきこもるために』を読んだ。」という記事を書いたが、今回のコロナ禍においては誰もが等しく当事者だった。誰もがこの事態は未経験であり、対応にマニュアルも前例もなかった。震災の時もそうだった。今後も予測しなかったような事態は起きるだろう。 その際、具体的な対応はそれぞれの臨床現場の事情により異なるとしても、臨床心理士資格認定協会という自分が所属登録する組織の内部に可視化された意志決定プロセスがあったら会員利用者である私たちはまずそれを参照することができる。そうすれば少なくとも混乱時において、主観に基づいた自己流のその場しのぎの対応を繰り返す危険性を減らすことができるだろう(これ=主観に基づいた自己流のその場しのぎの対応は明らかに臨床心理士に対する信頼性を損なうと思うが、なくはないことだと思う)。私は今回の事態を受けて、資格認定協会のような幅広い年齢、経験、地域の人々が所属登録する団体においてこそ、それらに関係なくより多くの人が行動の参照枠とできる体制なりアルゴリズムのようなものが求められているように感じた。

第一報、第二報の話に戻る。第二報に対して私は「だったらどうして最初からそう書かないのか」という気持ちよりは、第一報では「新制度」とは書いてあったが、第二報の欄外にあったような「新・特別措置」とは書いていなかったのでは、など疑問が増えてしまった。「なんで今、この公告を?」という驚きでいっぱいだった私にとって、第二報によって何かが腑に落ちたということはなかった。むしろ私は、第一報、第二報でも、一体どのように特別措置終了の時期が決定されたのか、つまり現状の認識と分析はどのようになされたのか、そして何を根拠にこの先のことは判断されていくのか、というプロセスと仮説を知りたいという思いを強くした。

こうして具体的に考えてみれば、私自身が所属登録する団体の動きに対してなぜこれまでそんなに受身だったのかと不思議に思う。情けなくも思う。でもブログに書いたように「きっと可視化を待っている問題はまだまだある。でもわたしたちは危機と出会うまでそれとも出会うことはできない」という側面もあるのだと思う。

私がトレーニングを続けている精神分析の治療においても、転移状況において切迫感が高まった時にはじめて事態は動きだす。意識的にはずっと切迫していたはずなのに多くの防衛機制によって触れることを妨げられていた無意識と触れるとき、それまでとは全く異なる切迫感が私たちを襲う。そこをワークスルーしようとする時、私たちは自分が自身の欲望に比していかに狭い世界に引きこもっていたか、そしてそうすることがなぜ必要だったのかを理解するとともに喪ったものの大きさを知る。激しい情緒の揺れとともに。それは大変に辛い体験だがそこからはじめて学びは可能になるのかもしれない。始めるのに早いも遅いもない。

人はひとりでは生きていない、という当たり前の現実を新型コロナウィルスは「感染したら死ぬ可能性がある」という形で見せてきた。だからこそ他者とどうにか手を、その手に触れられないなら情緒を、さらには記憶を繋いでいくすべを探る、そうすることで自分のことも相手のことも孤独にさせない。そのためにも自分たちの未来を自分たちで考える力をつける必要がある。何がどうなってこうなっているのかを知る、そのプロセスをはじめられたらと思った。すでに仲間と話しあいも進めている。どこまでできるかわからないが、今回、多くの人が可視化された形で声をあげたことで動きをもたらしたこと、そこで生じた変化を一時的なものにしないように多くの方と協力して考え続けていきたい。そんな風に思っている。

日本臨床心理士資格認定協会「教育研修機会」に関して思ったこと

新型コロナウィルス感染症が確認されてから2年、日本臨床心理士資格認定協会はコロナ禍において認定ポイントに係る「教育研修機会等に関する特別措置」を適用してきた。しかし、令和 3 年度末(2022 年 3 月 31 日)でそれをすべて終了し、来年度からは新しい臨床心理士制度において資格更新が行われるという。それに関してTwitter上での議論を目にするが、この公告にインパクトがあったとしたら、なぜ今、いまだこの状況にあるのに、という驚きが会員臨床心理士に生じたからというのがひとつの理由ではないだろうか。

まん延防止等重点措置がとられるなか、沖縄で開催が予定されていた「第30回心の健康会議」が中止になったのは当然としてもあの時期に開催の案内がきたのには驚いた。そして今回、コロナもロシアによるウクライナ侵攻もまるでなかったかのように重要公告が出されたタイミングにも驚いた。え、なぜに今、と。私がここで雑感を述べるのは資格ポイントに関わる研修方式についてだが、公告においては「リアル対面方式」と「オンライン方式」の特徴づけは未だ不明瞭であるにも関わらず、「リアル対面方式」が基本原則として位置付けられていた。

もちろん、対面(in person)方式は別のものに代理できるものではない。私たちが元来もつ移動や集会の自由によって生じる対話や関係の価値はこれまで通り大変重要である。そのため、特別措置の期間が終了すれば速やかに研修の方法を元に戻すというのが理想なのかもしれない。 また、これまでも障害、病気、海外在住などの事情をもつ方に対するポイント申請に関する形式的な配慮はあった。

しかし、どうだろう。コロナ禍における特別措置の実施によって、さらに幅広い視点から見た場合の格差、具体的には子育て中の方(特に女性)や地方と都市部の会員臨床心理士の環境の違いによる不利益などに対する高精度な検証が可能になったとはいえないだろうか。実際の経験によって、明らかに改善可能な部分はすでにそうされているかもしれない。

特別措置、具体的には、オンライン方式による研修の導入が主なものと思うが、その効果については海外のレビュー論文などを参照した検証ができつつあるあろう。 したがって、現在は、どの会員臨床心理士にとっても研修がアクセス可能であるためにそのシステムをどう構築していくべきかという議論が具体的に可能な段階にあると思われる。これまでの対面方式をより精緻な視点で検証し、エヴィデンスに基づいた効果を伴うものとして位置付けていく努力は当然必要だろうし、対面方式とオンライン方式を組み合わせたハイブリッドといった中間的な方法もすでに効果的に行われているのではないだろうか。

このように多様性を維持し、会員利用者である臨床心理士に対するアクセシビリティを向上させる取り組みをしていくことは、臨床に携わる者の責務でもあり、継続した検証を可能にする研修システムの構築が期待されているのではないだろうか、というようなことを今回の通知をみて思ったので書いてみた。

【臨床家向け】日本精神分析協会 第8回 LECTURE DAY

日本精神分析協会 第8回 LECTUREDAY 

『ネガティヴ・ケイパビリティを考えるーその理論と応用』

日 時:2022年3月20日(日) 時 間:13:00~17:00

場 所:オンライン(Zoom)

参 加 費:4,000 円

講義 1.松木邦裕

講義 2.鈴木智美

講義 3.権成鉉

指定討論:吾妻壮 

申込期限:2022 年 3月14日(月)

https://www.jpas.jp/ja/topics/177/?fbclid=IwAR22gyPVTbNDTI0M41W8fhjdTAidl_-UU_KLGHjdnbmSGsyWDcnQnwRuy1M

【報告】短期力動療法入門の会

(この記事はトップページから転記したものです。トップページの記事はしばらくしたら削除いたします。)

GWは特別な遊びをしました。オンラインとはいえ無事に開催できて嬉しかったです。

今回は、臨床経験年数(5〜20年以上)、領域(教育、医療、看護、福祉など)、技法(力動、CBT、ロジャース、EMDR、不特定など)も様々な20名ほどの臨床家のみなさんと「短期力動療法」について学び合いました。男女比も4:5とあまり差がなく、偶然とはいえバランスのよいグループでの開催となりました。

このゆとりなき時代のニーズにあっていそうな「短期力動療法」、私たちにとってはいまだ新しい技法ですが、今回はこれをいち早く紹介してくださった精神分析家の妙木浩之先生にご講義いただきました。

日本でもAEDP(Accelerated Experiential Dynamic Psychotherapy:加速化体験力動療法)のようにトレーニングへのアクセスがしやすい技法もありますのでご興味のある方はぜひウェブサイトをチェックしてみてください。創始者のダイアナ・フォーシャの『人を育む愛着と感情の力』の監訳者の先生方(岩壁茂・花川ゆう子・福島哲夫・沢宮容子・妙木浩之, 2017)の研究に当たってみるのも近道かと思います。

今回はSTDP(短期力動療法)の基盤である精神分析をメインのお仕事としながら、EMDRなど他の心理療法の技法も習得されている精神分析家の妙木浩之先生をお迎えしました。

実はフロイトから始まっていたその歴史(ex.作曲家グスタフ・マーラーの治療)、技法の特徴、治療の実際まで、豊富な資料とビデオを用いてご講義いただいたおかげで、知的な理解にとどまっていた私たちの短期力動療法イメージはかなり具体的、立体的になったような気がします。マランの二つの三角形を作動させることが大事なんですね。ちなみに妙木先生はレヴェンソン系列の短期力動療法(STDP)を長く実践しているそうです。私もトレーニングするならレヴェンソン系がいいと思いました。

講義の前日にはウォーミングアップを兼ねて、CBTと精神分析というお互い名前だけは知っている(内容も知ってはいるけど実践として知らない)というような間柄(=領域)の二人でこの「短期力動療法入門」を素材に語り合ってみました。お迎えしたのは、京都CBTセンター・京都大学大学院医学系研究科 社会健康医学系専攻 健康増進・行動学分野 助教の坂田昌嗣さんです。

CBTセラピストの坂田さんと精神分析家候補生の私は、私が坂田さんを一方的に知っている間柄(セミナー受講生として)だったのですが、私がTwitterで紹介した『短期力動療法入門』に坂田さんが興味を持ってくださり、坂田さんの読み方に興味を持った私が今回のイベントにお付き合いいただけないかとお願いしたという経緯だった気がします。

ちなみに『短期力動療法入門』についてはあまりまとまっていませんがこちらこちらも更新中です。

 坂田さんとは『短期力動療法入門』を読むということで、坂田さんがCBTセラピストとしてこの本から感じたこと、考えたことを教えていただきました。また前もってお渡しした質問にも対話的に答えてくださいました。穏やかながら聞き手の問題意識を掻き立てる明快な指摘に聞き手の私たちも触発され、どの方も日々の臨床から生じた迷いや罪責感などを実感のこもった語り口でお話しくださいました。1日目のこの濃密な共有があったからこそ2日目の妙木先生の講義に対しても「自分の臨床に取り入れていくとしたら」というポジティブな発言が多かったのかもしれません。

 ちなみにテキストは以下の二冊です。

ソロモン他 妙木・飯島(監訳)(2014) 短期力動療法入門.金剛出版

妙木 浩之(2010) 初回面接入門―心理力動フォーミュレーション.岩崎学術出版社


短期力動療法の強みは

「精神分析と同じ深さのプロセスをより促進的におこすことで、同じ効果をより早く患者にもたらす」

ことです。(『心理療法の交差点2』新曜社)

精神分析を提供している心理臨床家は多くないですが、精神分析の知見を取り入れた精神分析的(力動的)な心理療法を提供している方は多くおられます。

精神分析と精神分析的心理療法の違いについてはこちらもご参考までに。

歴史はあるのに技法として選択されるにはとてもマイナーな精神分析、ですが、その知見を有効だと感じ、取り入れて使用する方が多いということはこの技法の潜在的な可能性を示していると私は考えています。

私個人は「精神分析」ではなく「力動的心理療法」を提供する場合、患者やクライエントのニードにミニマムに、シンプルに応えていきたいと考えていて、というより、それが時代のニーズのように感じています。そしてそのときに活用できるのがこの短期力動療法Short-term therapyではないかという感覚は以前からありました。

ただ、これはこれで相当のトレーニングが必要なので、今回他職種や他技法の皆さんと対話し、妙木先生のお話もうかがえたことはその導入について具体的なイメージを描くのに大変示唆的でした。

限られた期間で効果的に無意識を扱う短期力動療法は、精神分析と他のインテンシブな心理療法(認知行動療法など)、また精神分析とエビデンスに基づく実践(EBP)との交差点とも言えます。今回はより様々な臨床家が立ち止まる交差点として機能してくれました。

ところで、私はひとりでオフィスで仕事をしていますが、私にとって開業臨床は精神分析という文化の一部にあって、私のオフィスは同じ路線にあるひとつの駅みたいなものだと思っています。だから「ひとり」と思ってはいませんし、こんな小さな駅で列車がすれ違ったり、待ち合わせたりするのってなんだかいいな、と思っています。特に気ままな旅もままらない今は。今回はCBTとEBPに限らず、特にアプローチを定めていない皆さんと待ち合わせをして一緒に遊ぶように学ぶことができてとても楽しかったです。

精神分析という遊び、そこにはいつも他者が必要で、しかも多様な他者が必要で、今回のような小さなグループでそういう方々と出会えたことはとても幸運でした。

Twitter @amisoffice1 でも準備、当日、終了後に得た学びなどをツイートしております。ご関心のある方はそちらもご覧ください。あまり関係ないことも呟いていますが良い体験を少しでもお裾分けできればと思います。

>ご参加の皆様、坂田さん、妙木先生、どうもありがとうございました。これからも様々な形で対話していけたら嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。

「短期力動療法入門」打ち合わせ②

週末はGWに行う「短期力動療法入門」の会の打ち合わせを坂田昌嗣さん(京都CBTセンター・京都大学大学院医学系研究科社会健康医学系専攻健康増進・行動学分野 助教)としました。

と書いてから1ヶ月が経ってしまいました。新年度もコロナ禍で始まりましたがいかがお過ごしでしょうか。新しい環境で一息つく間さえなかったという方もおられることでしょう。坂田さんも新しい環境で大変お忙しい中この会のために準備をしてくださっているようです。すでに大切な問いもいただきました。

当日は限られた時間になりますが私たちの対話をきっかけに参加者のみなさんが少し立ち止まってあれこれ考えるような時間になればいいなと思っています。

「時間が有限であることは、人が自分の人生が有限だということに気がつく機会である」と二日目にご講義くださる妙木浩之先生(日本精神分析協会 精神分析家)も書かれています。ほんとそうだなあと思います。

引用は『心理療法の交差点2』(p13 ③時間=分離=自立=成長)からです。

企画については似たようなことばかり書いていますが、一応こちらをご参考までに。こちらも。

すでに書きましたが今回の『短期力動療法入門』の会はその技法よりもその成り立ちと工夫を学ぶことでそれぞれの臨床を振り返る時間になると思います。妙木浩之先生もその部分を中心にお話ししてくださると思います。

日本の心理臨床は特定の技法というより口頭伝承的に発展してきた側面が大きいですし、私たちの学び方とそれはしっくりくる面もあるのでしょう。本来、この技法もどの技法も十分な訓練を必要とします。今回は短期力動療法を素材に、精神分析家の北山修先生が『共視論』において書かれたような横並びの関係で同じものを眺め、あれこれ言葉を交わしましょう。できるだけ皆さんとの対話の時間をとれるように時間設定をしておりますのでぜひ。

坂田さんとの打ち合わせでは「打ち合わせ①」にも書いたアウトカム研究についても色々と教えていただきました。また、短期力動療法における感情の取扱い方についてもあれこれ話し合いました。

これはおそらく私たちがインテンシブにトレーニングを積んでいるCBT(坂田さん)や精神分析(私)の違いとも関係していることなのですが、精神分析を基盤に発展してきた短期力動療法は感情、衝動に対してとても細やかです。それはそこに集中的に注意を払っているからともいえます。精神分析はもうちょっと全体にぼやっと注意を開放して漂わせるなかでまとまりがみえてきたらそれが解釈の形をとったりするわけですが、短期力動療法は防衛(=抵抗)の表現に敏感に反応し、クライエントが感じる困難と治療者が感じるクライエントの問題とのすり合わせを行っていきます。またそのプロセスにおいて「本物の感情」にとどまれるように支持的、共感的な態度を維持し、ボディスキャンを用いてクライエントの身体的な変化を言語化したりもします。自分で自分の感覚に気づく、自分で自分をマネージする、そのために二人で自分の状態を観察する、だから対面で、だからビデオで細やかに、なるほど、という感じがします。

坂田さんも私もお互いCBTや精神分析という専門性を掲げて開業で臨床しているせいか、外側の理論にも異質なもの、未知なものととして対立的、あるいは二分法的に関わっていくのではなく、自分の臨床とのすり合わせを行いながら違和感や共感をゆっくり咀嚼してそれを言葉で伝えていく感じみたいで(臨床はその相手との現実で理論ではないからでしょう)、打ち合わせでも穏やかな気持ちであれこれ考えられてとても楽しかったです。そして坂田さんはさすがに教えるのがとてもお上手で、私は個別学習塾に通う生徒のような気持ちも味わうことができました。

今回はzoomなので坂田さんと私も自分をモニタリングしながらお話することになるのですね。私はオンラインでもあまり画面を見たくない方なのでちょっとあれですが、みなさんのご協力のもと、私がすでに味わってしまった贅沢をみなさんにもお裾分けできるよう努力いたします。打ち合わせの時のようにのんびりやれたらと思うのでご参加のみなさんもゆるりと画面前にお越しください。そして楽しかったことは伝えたくなるはずなのでそのうちあちらこちらで書くと思います。ご関心のある方はお時間がある時にのぞいてみてください。

今日の東京は暑くなるようです。そういえば今回も北海道から九州までさまざまな地域の皆さんがご参加くださいます。オンラインのメリットですね。どうぞ良い一日をお過ごしください。

フロイトと宗教ー『ある錯覚の未来』

2019年の年末、薬学部の「人間と文化」という講義にお招きいただき、精神分析とは何かというお話をしてきました。


講義後、精神分析と宗教の関係について多くの質問をいただき、フロイト の『ある錯覚の未来』に書かれたことはいまにも引き継がれる議論であると感じました。
この論文もいくつかの日本語訳で読むことができますが、ここではキノドスの『フロイトを読む』にまとめられた部分を引用しながら少し書いてみようと思います。

フロイトは自分のことを「無神論者のユダヤ人」と公言しており、宗教と精神分析の関係という問いに取り組み続けました。フロイト が1927年に書いた『ある錯覚の未来』(岩波版フロイト全集第20巻所収)がそれについての代表的な著作ですが、発刊されるやいなや論争が巻き起こったと言います(フロイトの場合この著作に限らず論争は起きやすいですが)。

日本は自然そのものに神様を見出したり、八百万の神というほどに多神教的、汎神論的であり、一神教とは遠い文化なので、宗教そのものについて考える機会はほとんどないかもしれません。
しかし多くの国では宗教が戦争の原因になるほどにそれは人間に対して大きな支配力を持っています。そしてフロイトはユダヤ人です。それゆえこの問題に生涯取り組む必要があり、宗教からの精神分析に対する問いかけに応答し続ける必要があったのかもしれません。

フロイトは、反ユダヤ主義が根強く浸透した文化においてユダヤ人の家庭に生まれ、カトリック信者である子守女に養育されました。また、彼が生まれたときに与えられた名前もユダヤ名であるシュロモ、キリスト教名であるジギスムント(のちのジグムント)の両方だったそうです。

しかし、フロイトがユダヤ教、あるいはキリスト教など特定の宗教の内側から精神分析を語ることは決してなく、牧師たちとの文通においても精神分析がいかに宗教とは異なるかを語りつづけました。ちなみに『ある錯覚の未来』において想像上の論敵とされているのはフロイト の友人でもあったオスカー・プフィスターというプロテスタントの牧師であると推測されます。

フロイトは科学としての精神分析に希望を持っており、それが宗教に還元されることに抵抗しつづけました。
だからといってフロイトが宗教家が精神分析家になることは認めないというようなことはなく、今でも国際精神分析協会は宗教の問題は会員の自由に任せています。
同時にフロイトの思想への敵意にもかかわらず、カトリック教会が精神分析を公式に禁止することもありませんでした。

フロイトは宗教の源は幼児の無力感と「よるべなさ」であり、宗教的な表象は人類の最も強い欲望の現実化であり、錯覚であると考えました。

精神分析はフロイト のように非宗教的な精神分析家たちによって生み出されました。精神分析が宗教の問題を個々人に任せるのは当然としても、精神分析について考えるとき、この事実を踏まえることはとても重要なのではないかと私は思います。

また日本の宗教、日本の精神分析という文化に身を置く私がこの問題について考えるとき、日本の精神分析家である土居健郎の著作が多くの示唆を与えてくれます。
日本の精神分析を代表する概念である「甘え」を創造した土居は「宗教とイデオロギーの間」(『精神療法と精神分析』所収)という論考の中で、精神分析において「価値判断」の問題を棚上げできるかどうかについて論じています。

これについてはまた別の機会に書くことができればと思います。

短期力動療法と精神分析

今週末は『短期力動療法入門』から学ぶ会を催すので、精神分析との違いについてメモ的に書いてみました。これまで書いてきたものからの抜粋でもあります。

当日のテキストは
・ソロモン他『短期力動療法入門』妙木浩之、飯島典子監訳(金剛出版,2014)
・妙木 浩之(2010) 初回面接入門―心理力動フォーミュレーション.岩崎学術出版社
です。

『短期力動療法入門』は妙木浩之先生主催の短期力動療法研究会のメンバーで訳した本です。
原書名はShort Term Therapy for Long Term Changeで「力動」という単語は入っていません。

精神分析自体、日本でメジャーになったことがないので「まだあるんだ」と言われて説明させてもらうことなどもあるのですが、それが長期間を必要とするというイメージはみなさんなんとなくお持ちかと思います。また、そうなるとより使用しやすいものをということで短期化の動きが出てくるのもそれもそうかなという感じだと思います。そこで、長期の精神分析と同等の効果を短期、あるいは時間制限short-term,brief,time-limitedでもたらすために開発された技法に関する本がこれです。

この本を前もってざっとでも読んでおいていただくことを参加者の皆さんにはお願いしているので、その予習、復習にも少しお役に立てればとTwitterアカウントami’s officeもとりました。よろしければ覗いてみてください。それ以外のことも書いていますが。

短期力動療法は精神分析を基盤としています。しかし、その展開のプロセスにおいて、それは明らかに精神分析とは異なるものになりました。

精神分析はお互いのこころをフルに使いあうものなのでお互いに相当のエネルギーがいります。「こころを使う」というのは単に自分の気持ちに意識的になるというものではありません。精神分析でいうそれは、タブーとされているような人間の生の部分にフルに触れていくことであり、生活を維持しながらも自分の無意識に翻弄される自由を持つことと関係しています。

また、精神分析は異常と正常の間、意識と無意識の間でギリギリの体験を扱っています。こころが持つ破壊性と潜在性に対して精神分析が払う注意は独特のものです。

だからこそ精神分析の治療者になるのであれば訓練が必須で、まずは自分がこころの動きに十分にひたされ「こころを使える」範囲を広げておく必要があります。それは患者さんが体験することだからです。患者さんにとっても治療者にとってもやってみなくてはわからないというのはどの治療も同じですが、精神分析を受けることはかなり特殊な体験となると思います。

さて、精神分析がパーソナリティを含めたその人の全体性および潜在性に注意を漂わせつつ面接室内外で生じる様々な現象を細やかに捉えていくのに対し、短期力動療法はクライエント自身が問題と思っているところと治療者が困難な部分と考えたところのすり合わせを行いながら問題を焦点化していきます。

また、設定は対面で、自由連想法は使いません。夢解釈の技法も使いません。
フロイトの『フロイト技法論集』を並べて検討してみるとその技法が全く異なることがわかると思います。


主な技法は「抵抗解除」と「体験促進」です。ISTDPのセミナーなどを見てみると、Davanlooの抵抗に関するメタサイコロジーやマランが考案した三角形、head-on-collision with resistance(抵抗との正面衝突)の技法を学ぶことがその中心になっているようです。

『短期力動療法入門』第2章Davanlooによるインテンシヴな短期力動心理療法がそれにあたります。

たとえば2021年6月にAllan Abbassが行うセミナーの案内を見てみると
そこで学べる内容は以下です。
Davanloo’s Metapsychology of Resistance
Assessing and working with barriers to engagement
Determining and working with the front of the resistance
Psychodiagnostic assessment to determine degree and type of resistance
Nature and timing of interventions, including pressure, challenge, and head-on-collision with resistance
Partial and Major Unlocking of the Unconscious
Working with the mobilized unconscious


割とシンプルだと思います。
今回のテキスト『短期力動療法入門』の症例をお読みいただくとわかるように、
短期力動療法(特にISTDP)は、防衛解除に焦点化しアクティブで促進的に面接を進めていく技法です。
とてもシンプルでvividな方法ですが戦略的なので、言葉の使用についてもある種の型を自分に十分になじませておくことが必要そうです。

言葉の使用については妙木浩之先生、北山修先生の本をお勧めします。
私が一番お勧めなのは妙木先生の『精神分析における言葉の活用』という本です。北山先生の『意味としての心 「私」の精神分析用語辞典』も心を表す言葉について感覚を豊かにしておきたい方にはぜひお勧めしたい本です。

精神分析の側から考えると、このゆとりなき時代、精神分析という治療文化が廃れないためには短期力動療法のパイオニア(フロイトを含むが)たちがそうだったように、精神分析の歴史に根をはりつつ、より広く社会に答えるべく私たちにできることは何か、ということを模索し続けることが必要なのでしょう。

今回はCBTの専門家が対話に応じてくれました。そうすることでそれぞれが自分の思考を超えて考えていけるような時間になればいいな、と思います。

参照:
IEDTA:International Experiential Dynamic Therapy Association
この本の著者たちも紹介されています。
各技法はこちら。STDPもこのタイプのひとつです。

第8章今後の展望(David Malan)で紹介されている本。
タヴィストッククリニック:BalintとMalan
A Study of Brief Psychotherapy
Malan, D. H. 1963
マランを後押ししたバリントのことが書かれています。
バリントは医療と心理療法をつなぐ重要な役割を果たした精神分析家です。

『バリント入門』より引用
「一九五五年には、バリントは短期焦点心理療法を発展させるために、タヴィストック・クリニックとキャッセル病院出身の分析家たちとともに短期焦点心理療法ワークショップを立ち上げた。」
「…アセスメントは、最初にアセスメントをおこなった二人の担当者の報告書によって進められる。その報告書はワークショップで議論され、治療計画が策定される。このことを通じて、差し迫っているように思われ、それゆえに短期の作業に手早く導入することができそうな葛藤の焦点を配置したのだった。」
「患者の歩調にあわせて情動的な構造がゆっくりと展開していくことが許される分析とは対照的に、短期療法の目標は、グループのメンバーがよく言うように、「素早く入り込み、深いレベルで作業し、すぐに切り上げること」であった。」
「そのためには、開始の時点から、はっきりと意識された行動計画を組み立てる必要があった。治療者は、無意識の構造を見抜くことができるように、分析に相当精通していることが要求された。」←短期力動療法では初回重要は殊更重要です。

この本も歴史を外観したり、マランのインタビューが読めたりして興味深いです。

Theory and Practice of Experiential Dynamic Psychotherapy
ByFerruccio Osimo, Mark J. Stein

「短期力動療法入門」打ち合わせ①

週末はGWに行う『短期力動療法入門』の打ち合わせを坂田昌嗣さん(京都CBTセンター・京都大学大学院医学系研究科社会健康医学系専攻健康増進・行動学分野 助教)としました。

本については私のオフィスのサイトにも書きました。これは書き足しているうちに個人的な学習メモのようになってしまったので見にくいと思いますが・・いずれ修正します。すいません。

今回の打ち合わせは、坂田さんが以前勤めていらした精神科病院でのアウトカム研究の試みの話から「そういえばこの章のこのデータは効果量が高く出過ぎているのでは」という話になり、「心理療法の臨床試験でも、ネガティブデータは出版されない傾向にあるので、これらの効果量は少し差っ引いてみる必要がある(坂田さんのTwitterから)」と現状のアウトカムあるあるを教えていただきました。

すでに坂田さんがTweetしてくれていますがこういう例もあるそうです。「前々から注視しているけれど、UMINに登録のリワークマニュアルのRCT、2018年12月にフォローアップが終了後、なかなか出版されない。もう少しで世に出るんだろうか。これだけリワークが国内で広がってた以上、ネガでもポジでも現場への影響は大きいから、ぜひ公開してほしい。」

本当にそうですよね。私たちは「失敗から学ぶ」しかないところばかりなんだし、せっかく時間と労力をかけた研究なのだからぜひ公開していただきたいです。ネガティブなデータこそ大事だよと後押ししてくれる環境、思い切らなくても普通に結果を報告できる環境、もし今それがないならば今後できるといいなと思います。

以前、別のブログに書きましたが、精神分析はこれらの研究になかなかのせにくい構造を持っていると思います。ですが力動系アプローチであれば日本でも実践する人が多いと思うので、CBTのように「誰がやっても同じような効果がある」(ので安心してご利用ください)というのを臨床試験で出しやすいように思うのですが、海外と比べるとそういう研究って少なくないですか、基盤がぼんやりしているのかな、いう話もしました。

UMIN(ユーミン♪)やClinicalTrials.govのサイトも教えていただきました。

その繋がりでアトゥール・ガワンデ(Atul Gawande)の『医師は最善を尽くしているか 医療現場の常識を変えた11のエピソード』 というみすず書房から出ている本のことも教えていただきました。いまだコロナ禍にあるこの状況ではなおさら読むべき本なのかもしれない、とお話を伺いながら思いました。

これがひとつめのトピック。

ふたつめは「感情」に焦点をあてることについて。これはまた後日書きます(早くも電池切れです)。

今週は新年度が始まりますね。それぞれのペースでお身体に気をつけてお過ごしください。

『フロイト症例論集2』を読み終えました。

www.facebook.com/438749860050635/posts/818672185391732/

『フロイト最後の日記 1929〜1939』日本教文社もお勧めしてみなさんオーってなっていました。フロイトを読むといろんなことが身近になってその歴史も知りたくなるということでジョージ・マカーリの『心の革命』のお話も。

『I.R.S.ジャック・ラカン研究』

書肆心水さんから『I.R.S.ジャック・ラカン研究』No.17が届いた。「特集:今日のエディプス」が読みたくて注文しておいたのだ。

ラカンを読むのは難しいが、ルディネスコの『ジャック・ラカン伝』は面白いし、現代思想でも頻繁に引用されるので、数を読んでいるとなんとなく身近にはなれる。

臨床でも十川幸司、立木康介といったラカン派(十川先生は今もラカン派というのか不明)書き手が幅広い臨床家の橋渡しをする書物を書いている。立木康介編著の『精神分析の名著 フロイトから土居健郎まで』(中公新書)は必携だし、『フロイディアン・ステップ』や『女は不死である』などにはすでに触れた。

ラカン派というのは精神分析の中でも特殊な位置づけであり、このNo.17の原和之の論考の註では「ラカン派の外」のものとして藤山直樹『集中講義・精神分析(上)』(ちなみにこれも必携)が引用されている。

この特集で読みたかったのは「エディプスと女性的なるもの」のワークショップだが、パラパラしている限りどれも面白そうだ。

大学のハラスメント相談をラカンのディスクール論を応用して「被害者のディスクール」として論じる赤坂和哉氏の論考も興味深い。当然そこには「加害者のディスクール」もあるが、それが今後の加害者への具体的な対応策を見据えたうえで論じられているのは著者が大学人だからだろうし、意義深いと思う。

短い論考が多いこのような雑誌は隙間時間にぴったりなので楽しみたいと思う。

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