【東京公認心理師協会地域交流イベント】大田区・世田谷区に登録している皆様へ

8月に東京公認心理師協会の地域活動としてイベントを企画しました!

2019年2月に東京臨床心理士会から名称変更された東京公認心理師協会では1997年から地域ブロックでの活動を進めてきたものの当初の「会員相互のコミュニケーション、地域におけるネットワーク形成」という目的はなかなか達成されにくかったようで2016年度から新たな形での地域活動を開始することになったそうです。「一般社団法人公認心理師協会 地域活動要項」の日付は2019年3月11日となっているのでその間にも試行錯誤があったのだと思います。

新たな目的は1、地域における社会貢献活動の実現、2、会員相互のネットワークの形成だそうです。

2021年11月の時点での東京公認心理師協会の登録人数は区部3540人、区以外1349人、計4889人ということで今回私たちが地域活動の対象とするのは開催地である大田区(155人)、私の登録地域である世田谷区(453人)です。ちなみに私のオフィスがある新宿区の登録人数は214人。近いうちに新宿区でも何かやりましょう(>新宿区の心理士(師)のみなさん)。

臨床心理士と公認心理師が協力して東京に暮らす方々に向けて心理支援を普及、充実させていくことは協会の基本姿勢ですが、「地域」という視点は、地域に根付いた子育て支援のNPO活動を長く行なってきた私にとっても欠かせないものです。スクールカウンセラーをしていた頃も当時の「地域会」という横のつながりには本当に助けられました。

協会の地域活動推進委員会からのお知らせが入った封筒がきた頃、ちょうど私と同じく個人オフィスで高次脳機能障害のピアグループを開催している松岡宮さん(公認心理師、詩人でもあられます!)と知り合い、イベントの話を持ちかけてみたところあっさり決定。

最初は川柳会のトップランナー、とてもユニークかつオープンな20代の柳人暮田真名さんをゲストにお迎えしてのイベントを企画しましたが、協会の地域活動には外部講師を招くという設定がなかったため、そちらは私と松岡さんの協働イベントとして別立てて計画しました。そちらも近いうちに告知いたしますので楽しみにお待ちくださいませ(参考までに2022年6月2日「好日好書」)。

今回は、東京都大田区、世田谷区に登録されている臨床心理士・公認心理師の方に向けて以下のイベントを企画しました。テーマは「言葉の可能性を探る」~心理士(師)が地域でひらかれるために~ です。それぞれの臨床において「使われている言葉」について少人数で改めて振りかえってみようと思います。そうやって「あえて言葉にしてみる」ことで無意識的に用いてきた言葉にも新たな意味を見出せるかもしれません。あるいは当たり前のようにしてきた言葉の使用に関する工夫を「あえて言語化」し共有することでより良い工夫が可能になるかもしれません。「あえて言葉にしてみる」ことの大切さや難しさを再確認しながら、お互いに通じる言葉、相手に開かれた言葉の使用について話し合えたらと思っています。

詳細は以下の通りです。ご参加お待ちしております!

【日時】 2022年8月7日(日)10:00~12:00

【会場】 蒲田寺子屋(〒146-0095 大田区多摩川1-21-21)

(東急多摩川線「矢口渡」駅 徒歩2分)

【テーマ】「言葉の可能性を探る」~心理士(師)が地域でひらかれるために~

【対象】臨床心理士/公認心理師 10名程度

【参加費】無料

【申込み先】kamataterakoya@live.jp (蒲田寺子屋 松岡)

【内容紹介】日々の臨床を行いながら詩や俳句をたしなむ二人の心理士(師)が出会い、「言葉」を軸にしたユニークな地域イベントを企画しました。

それぞれの臨床活動を「使われている言葉」という観点から振り返り、用いている言葉への気づきや共有を通じて心理士(師)同志の交流をはかります。

また地域でピアサポートの場として用いられている空き家で開催することで、このような小さな場を用いての心理的支援の新たな可能性も同時にさぐってみたいと思います。

詩や俳句に正解はなく、形式を逸脱することが許されます。その寛容さはVUCA時代の心理的支援において必要とされる側面であるかもしれません。どうぞお気軽にお申し込みください。

企画代表者名:岡本亜美 ami3office@gmail.com

共同企画者、連絡係:松岡恵子

前の二つの記事を修正しました

日本臨床心理士資格認定協会は「公益財団法人」のため私たち臨床心理士は「登録者」(「利用者」でもいいと思う)であり「会員」ではない(払っているのは登録料であり総会とかもないですものね)ということで関連記事を修正しました。

修正箇所は取り消し線を引いた形で残してあります。

日本臨床心理士資格認定協会「教育研修機会」に関して思ったこと

https://aminooffice.wordpress.com/2022/03/10/

日本臨床心理士資格認定協会「教育研修機会」に関して思ったこと②

https://aminooffice.wordpress.com/2022/03/20/

日本臨床心理士資格認定協会「教育研修機会」に関して思ったこと②

3月10日のブログで、3月1日に出された日本臨床心理士資格認定協会からの公告に関して、タイミングと研修方式の観点から雑感を述べた。その後、盛り上がったらしいSNS上での議論の多くには目を通していないが、資格更新(資格更新制度についてはこちら)の時期が近い方の懸念やそれに対応するやりとりをいくつか見かけた。私は昨年度、オンライン研修のおかげでギリギリ資格更新できてしまったせいか資格更新に関しては焦りはなかったが、やはり「なんで今」という疑問に突き動かされてああいうことを書いたのだと思う。「やはり」というのは、それ以前に違和感が生じていたところに「え、また!?」という驚きが重なったということである。最初の違和感は2022年1月12日に出された「第30回心の健康会議(沖縄)」のお知らせに対してだった。これまでお恥ずかしいことに資格認定協会の動きに対して受身的にしか注意を払ってこなかった私でもこれには驚いた。「なんで今、現地で!?」

お知らせには「開催地の沖縄県に令和4年1月9日からまん延防止等重点措置が実施されている現状に鑑みて、第30回心の健康会議の開催に変更が生じる場合があります」とあった。何を言っているのだろう、としばし思考停止した。私たちはこの2年間、できるだけ移動しない、集まらないということを守ってきた、自分と相手の命のために。そう、これは命の問題だということで多くの職種の皆さんが制限を加えられた。その結果、職や家を失い別の場所へ移動せざるをえなかった方々と私たちは現場でお会いしてきたはずである。会員臨床心理士の中にも県を跨いで通勤することができず、その間無給で過ごした方もいたときく。また、移動の難しい入院患者のいる病棟でクラスターが発生したときの臨床心理士の苦悩も聞いた。それらは耳に届いていなかっただろうか。

ちなみに私が住む東京都は令和4年1月21日(金)0時から重点措置が実施され、先日、3月21日(明後日)でそれがようやく終了することが発表された。

繰り返すがそんな中で臨床心理士資格認定協会最大規模(定員1500人を超えるのではなかったか。今回はもっと少ない定員だったりしたか。だとしても)の集まりを現地で開催する予定とは…。驚いた。前回書いたように移動や集会の自由は誰にも奪えるものではない。しかし現実検討は私たちの仕事の基礎でもあるはずだ。もしかしたら認定協会は現状の認識と分析、今後の展望に関してあまりに主観的、楽観的なのでは、いや、私も大変お世話になっている現場でご活躍の先生もおられるのにそんなことは、など思っていた2月3日、「〈こころといのち〉の安心・安全を第一義とする臨床心理士と公益財団法人として、まことに残念ながら【開催中止】を決断しましたことを緊急に公告します。」というお知らせがあった。

そして今回の第一報(3月1日)、第二報(3月15日)である。私には短期間で同じタイプの出来事が生じたように思えた。「なんで今?(現実の状況はどこへ?)」という問いが再び頭をもたげた。

第一報(3月1日)の「公益財団法人 日本臨床心理士資格認定協会から 臨床心理士の皆様へ 〈重要公告:令和4年度に臨んで〉」はSNS上の臨床心理士をざわつかせ、2週間後に第二報(3月15日)「New「『オンライン研修』についての基本方針」(令和4年3月1日付)等へのお願いと当面の対応について」が出された。協会のスピーディーな対応は、多くの会員臨床心理士の関心と行動力におされてのことだと思う。声を上げることはやはり大切なのだ。すでに後進を育てる世代になった私にとってそのこと自体は喜ばしかった。なのでなおさら思うのだが、コロナ禍という世界規模の未曾有の事態から私たちはもっと謙虚に学び、慎重に、丁寧に動くべきではないだろうか。そのためにも今回のようなシステムの変更に関してはそのプロセスは会員利用者である臨床心理士に向けて開示されるべきではないだろうか。私たちには知る必要も権利もあるように思う。

以前、ブログで「斎藤環著『コロナ・アンビバレンスの憂鬱 ー健やかにひきこもるために』を読んだ。」という記事を書いたが、今回のコロナ禍においては誰もが等しく当事者だった。誰もがこの事態は未経験であり、対応にマニュアルも前例もなかった。震災の時もそうだった。今後も予測しなかったような事態は起きるだろう。 その際、具体的な対応はそれぞれの臨床現場の事情により異なるとしても、臨床心理士資格認定協会という自分が所属登録する組織の内部に可視化された意志決定プロセスがあったら会員利用者である私たちはまずそれを参照することができる。そうすれば少なくとも混乱時において、主観に基づいた自己流のその場しのぎの対応を繰り返す危険性を減らすことができるだろう(これ=主観に基づいた自己流のその場しのぎの対応は明らかに臨床心理士に対する信頼性を損なうと思うが、なくはないことだと思う)。私は今回の事態を受けて、資格認定協会のような幅広い年齢、経験、地域の人々が所属登録する団体においてこそ、それらに関係なくより多くの人が行動の参照枠とできる体制なりアルゴリズムのようなものが求められているように感じた。

第一報、第二報の話に戻る。第二報に対して私は「だったらどうして最初からそう書かないのか」という気持ちよりは、第一報では「新制度」とは書いてあったが、第二報の欄外にあったような「新・特別措置」とは書いていなかったのでは、など疑問が増えてしまった。「なんで今、この公告を?」という驚きでいっぱいだった私にとって、第二報によって何かが腑に落ちたということはなかった。むしろ私は、第一報、第二報でも、一体どのように特別措置終了の時期が決定されたのか、つまり現状の認識と分析はどのようになされたのか、そして何を根拠にこの先のことは判断されていくのか、というプロセスと仮説を知りたいという思いを強くした。

こうして具体的に考えてみれば、私自身が所属登録する団体の動きに対してなぜこれまでそんなに受身だったのかと不思議に思う。情けなくも思う。でもブログに書いたように「きっと可視化を待っている問題はまだまだある。でもわたしたちは危機と出会うまでそれとも出会うことはできない」という側面もあるのだと思う。

私がトレーニングを続けている精神分析の治療においても、転移状況において切迫感が高まった時にはじめて事態は動きだす。意識的にはずっと切迫していたはずなのに多くの防衛機制によって触れることを妨げられていた無意識と触れるとき、それまでとは全く異なる切迫感が私たちを襲う。そこをワークスルーしようとする時、私たちは自分が自身の欲望に比していかに狭い世界に引きこもっていたか、そしてそうすることがなぜ必要だったのかを理解するとともに喪ったものの大きさを知る。激しい情緒の揺れとともに。それは大変に辛い体験だがそこからはじめて学びは可能になるのかもしれない。始めるのに早いも遅いもない。

人はひとりでは生きていない、という当たり前の現実を新型コロナウィルスは「感染したら死ぬ可能性がある」という形で見せてきた。だからこそ他者とどうにか手を、その手に触れられないなら情緒を、さらには記憶を繋いでいくすべを探る、そうすることで自分のことも相手のことも孤独にさせない。そのためにも自分たちの未来を自分たちで考える力をつける必要がある。何がどうなってこうなっているのかを知る、そのプロセスをはじめられたらと思った。すでに仲間と話しあいも進めている。どこまでできるかわからないが、今回、多くの人が可視化された形で声をあげたことで動きをもたらしたこと、そこで生じた変化を一時的なものにしないように多くの方と協力して考え続けていきたい。そんな風に思っている。

日本臨床心理士資格認定協会「教育研修機会」に関して思ったこと

新型コロナウィルス感染症が確認されてから2年、日本臨床心理士資格認定協会はコロナ禍において認定ポイントに係る「教育研修機会等に関する特別措置」を適用してきた。しかし、令和 3 年度末(2022 年 3 月 31 日)でそれをすべて終了し、来年度からは新しい臨床心理士制度において資格更新が行われるという。それに関してTwitter上での議論を目にするが、この公告にインパクトがあったとしたら、なぜ今、いまだこの状況にあるのに、という驚きが会員臨床心理士に生じたからというのがひとつの理由ではないだろうか。

まん延防止等重点措置がとられるなか、沖縄で開催が予定されていた「第30回心の健康会議」が中止になったのは当然としてもあの時期に開催の案内がきたのには驚いた。そして今回、コロナもロシアによるウクライナ侵攻もまるでなかったかのように重要公告が出されたタイミングにも驚いた。え、なぜに今、と。私がここで雑感を述べるのは資格ポイントに関わる研修方式についてだが、公告においては「リアル対面方式」と「オンライン方式」の特徴づけは未だ不明瞭であるにも関わらず、「リアル対面方式」が基本原則として位置付けられていた。

もちろん、対面(in person)方式は別のものに代理できるものではない。私たちが元来もつ移動や集会の自由によって生じる対話や関係の価値はこれまで通り大変重要である。そのため、特別措置の期間が終了すれば速やかに研修の方法を元に戻すというのが理想なのかもしれない。 また、これまでも障害、病気、海外在住などの事情をもつ方に対するポイント申請に関する形式的な配慮はあった。

しかし、どうだろう。コロナ禍における特別措置の実施によって、さらに幅広い視点から見た場合の格差、具体的には子育て中の方(特に女性)や地方と都市部の会員臨床心理士の環境の違いによる不利益などに対する高精度な検証が可能になったとはいえないだろうか。実際の経験によって、明らかに改善可能な部分はすでにそうされているかもしれない。

特別措置、具体的には、オンライン方式による研修の導入が主なものと思うが、その効果については海外のレビュー論文などを参照した検証ができつつあるあろう。 したがって、現在は、どの会員臨床心理士にとっても研修がアクセス可能であるためにそのシステムをどう構築していくべきかという議論が具体的に可能な段階にあると思われる。これまでの対面方式をより精緻な視点で検証し、エヴィデンスに基づいた効果を伴うものとして位置付けていく努力は当然必要だろうし、対面方式とオンライン方式を組み合わせたハイブリッドといった中間的な方法もすでに効果的に行われているのではないだろうか。

このように多様性を維持し、会員利用者である臨床心理士に対するアクセシビリティを向上させる取り組みをしていくことは、臨床に携わる者の責務でもあり、継続した検証を可能にする研修システムの構築が期待されているのではないだろうか、というようなことを今回の通知をみて思ったので書いてみた。

【臨床家向け】日本精神分析協会 第8回 LECTURE DAY

日本精神分析協会 第8回 LECTUREDAY 

『ネガティヴ・ケイパビリティを考えるーその理論と応用』

日 時:2022年3月20日(日) 時 間:13:00~17:00

場 所:オンライン(Zoom)

参 加 費:4,000 円

講義 1.松木邦裕

講義 2.鈴木智美

講義 3.権成鉉

指定討論:吾妻壮 

申込期限:2022 年 3月14日(月)

https://www.jpas.jp/ja/topics/177/?fbclid=IwAR22gyPVTbNDTI0M41W8fhjdTAidl_-UU_KLGHjdnbmSGsyWDcnQnwRuy1M

【報告】短期力動療法入門の会

(この記事はトップページから転記したものです。トップページの記事はしばらくしたら削除いたします。)

GWは特別な遊びをしました。オンラインとはいえ無事に開催できて嬉しかったです。

今回は、臨床経験年数(5〜20年以上)、領域(教育、医療、看護、福祉など)、技法(力動、CBT、ロジャース、EMDR、不特定など)も様々な20名ほどの臨床家のみなさんと「短期力動療法」について学び合いました。男女比も4:5とあまり差がなく、偶然とはいえバランスのよいグループでの開催となりました。

このゆとりなき時代のニーズにあっていそうな「短期力動療法」、私たちにとってはいまだ新しい技法ですが、今回はこれをいち早く紹介してくださった精神分析家の妙木浩之先生にご講義いただきました。

日本でもAEDP(Accelerated Experiential Dynamic Psychotherapy:加速化体験力動療法)のようにトレーニングへのアクセスがしやすい技法もありますのでご興味のある方はぜひウェブサイトをチェックしてみてください。創始者のダイアナ・フォーシャの『人を育む愛着と感情の力』の監訳者の先生方(岩壁茂・花川ゆう子・福島哲夫・沢宮容子・妙木浩之, 2017)の研究に当たってみるのも近道かと思います。

今回はSTDP(短期力動療法)の基盤である精神分析をメインのお仕事としながら、EMDRなど他の心理療法の技法も習得されている精神分析家の妙木浩之先生をお迎えしました。

実はフロイトから始まっていたその歴史(ex.作曲家グスタフ・マーラーの治療)、技法の特徴、治療の実際まで、豊富な資料とビデオを用いてご講義いただいたおかげで、知的な理解にとどまっていた私たちの短期力動療法イメージはかなり具体的、立体的になったような気がします。マランの二つの三角形を作動させることが大事なんですね。ちなみに妙木先生はレヴェンソン系列の短期力動療法(STDP)を長く実践しているそうです。私もトレーニングするならレヴェンソン系がいいと思いました。

講義の前日にはウォーミングアップを兼ねて、CBTと精神分析というお互い名前だけは知っている(内容も知ってはいるけど実践として知らない)というような間柄(=領域)の二人でこの「短期力動療法入門」を素材に語り合ってみました。お迎えしたのは、京都CBTセンター・京都大学大学院医学系研究科 社会健康医学系専攻 健康増進・行動学分野 助教の坂田昌嗣さんです。

CBTセラピストの坂田さんと精神分析家候補生の私は、私が坂田さんを一方的に知っている間柄(セミナー受講生として)だったのですが、私がTwitterで紹介した『短期力動療法入門』に坂田さんが興味を持ってくださり、坂田さんの読み方に興味を持った私が今回のイベントにお付き合いいただけないかとお願いしたという経緯だった気がします。

ちなみに『短期力動療法入門』についてはあまりまとまっていませんがこちらこちらも更新中です。

 坂田さんとは『短期力動療法入門』を読むということで、坂田さんがCBTセラピストとしてこの本から感じたこと、考えたことを教えていただきました。また前もってお渡しした質問にも対話的に答えてくださいました。穏やかながら聞き手の問題意識を掻き立てる明快な指摘に聞き手の私たちも触発され、どの方も日々の臨床から生じた迷いや罪責感などを実感のこもった語り口でお話しくださいました。1日目のこの濃密な共有があったからこそ2日目の妙木先生の講義に対しても「自分の臨床に取り入れていくとしたら」というポジティブな発言が多かったのかもしれません。

 ちなみにテキストは以下の二冊です。

ソロモン他 妙木・飯島(監訳)(2014) 短期力動療法入門.金剛出版

妙木 浩之(2010) 初回面接入門―心理力動フォーミュレーション.岩崎学術出版社


短期力動療法の強みは

「精神分析と同じ深さのプロセスをより促進的におこすことで、同じ効果をより早く患者にもたらす」

ことです。(『心理療法の交差点2』新曜社)

精神分析を提供している心理臨床家は多くないですが、精神分析の知見を取り入れた精神分析的(力動的)な心理療法を提供している方は多くおられます。

精神分析と精神分析的心理療法の違いについてはこちらもご参考までに。

歴史はあるのに技法として選択されるにはとてもマイナーな精神分析、ですが、その知見を有効だと感じ、取り入れて使用する方が多いということはこの技法の潜在的な可能性を示していると私は考えています。

私個人は「精神分析」ではなく「力動的心理療法」を提供する場合、患者やクライエントのニードにミニマムに、シンプルに応えていきたいと考えていて、というより、それが時代のニーズのように感じています。そしてそのときに活用できるのがこの短期力動療法Short-term therapyではないかという感覚は以前からありました。

ただ、これはこれで相当のトレーニングが必要なので、今回他職種や他技法の皆さんと対話し、妙木先生のお話もうかがえたことはその導入について具体的なイメージを描くのに大変示唆的でした。

限られた期間で効果的に無意識を扱う短期力動療法は、精神分析と他のインテンシブな心理療法(認知行動療法など)、また精神分析とエビデンスに基づく実践(EBP)との交差点とも言えます。今回はより様々な臨床家が立ち止まる交差点として機能してくれました。

ところで、私はひとりでオフィスで仕事をしていますが、私にとって開業臨床は精神分析という文化の一部にあって、私のオフィスは同じ路線にあるひとつの駅みたいなものだと思っています。だから「ひとり」と思ってはいませんし、こんな小さな駅で列車がすれ違ったり、待ち合わせたりするのってなんだかいいな、と思っています。特に気ままな旅もままらない今は。今回はCBTとEBPに限らず、特にアプローチを定めていない皆さんと待ち合わせをして一緒に遊ぶように学ぶことができてとても楽しかったです。

精神分析という遊び、そこにはいつも他者が必要で、しかも多様な他者が必要で、今回のような小さなグループでそういう方々と出会えたことはとても幸運でした。

Twitter @amisoffice1 でも準備、当日、終了後に得た学びなどをツイートしております。ご関心のある方はそちらもご覧ください。あまり関係ないことも呟いていますが良い体験を少しでもお裾分けできればと思います。

>ご参加の皆様、坂田さん、妙木先生、どうもありがとうございました。これからも様々な形で対話していけたら嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。

「短期力動療法入門」打ち合わせ②

週末はGWに行う「短期力動療法入門」の会の打ち合わせを坂田昌嗣さん(京都CBTセンター・京都大学大学院医学系研究科社会健康医学系専攻健康増進・行動学分野 助教)としました。

と書いてから1ヶ月が経ってしまいました。新年度もコロナ禍で始まりましたがいかがお過ごしでしょうか。新しい環境で一息つく間さえなかったという方もおられることでしょう。坂田さんも新しい環境で大変お忙しい中この会のために準備をしてくださっているようです。すでに大切な問いもいただきました。

当日は限られた時間になりますが私たちの対話をきっかけに参加者のみなさんが少し立ち止まってあれこれ考えるような時間になればいいなと思っています。

「時間が有限であることは、人が自分の人生が有限だということに気がつく機会である」と二日目にご講義くださる妙木浩之先生(日本精神分析協会 精神分析家)も書かれています。ほんとそうだなあと思います。

引用は『心理療法の交差点2』(p13 ③時間=分離=自立=成長)からです。

企画については似たようなことばかり書いていますが、一応こちらをご参考までに。こちらも。

すでに書きましたが今回の『短期力動療法入門』の会はその技法よりもその成り立ちと工夫を学ぶことでそれぞれの臨床を振り返る時間になると思います。妙木浩之先生もその部分を中心にお話ししてくださると思います。

日本の心理臨床は特定の技法というより口頭伝承的に発展してきた側面が大きいですし、私たちの学び方とそれはしっくりくる面もあるのでしょう。本来、この技法もどの技法も十分な訓練を必要とします。今回は短期力動療法を素材に、精神分析家の北山修先生が『共視論』において書かれたような横並びの関係で同じものを眺め、あれこれ言葉を交わしましょう。できるだけ皆さんとの対話の時間をとれるように時間設定をしておりますのでぜひ。

坂田さんとの打ち合わせでは「打ち合わせ①」にも書いたアウトカム研究についても色々と教えていただきました。また、短期力動療法における感情の取扱い方についてもあれこれ話し合いました。

これはおそらく私たちがインテンシブにトレーニングを積んでいるCBT(坂田さん)や精神分析(私)の違いとも関係していることなのですが、精神分析を基盤に発展してきた短期力動療法は感情、衝動に対してとても細やかです。それはそこに集中的に注意を払っているからともいえます。精神分析はもうちょっと全体にぼやっと注意を開放して漂わせるなかでまとまりがみえてきたらそれが解釈の形をとったりするわけですが、短期力動療法は防衛(=抵抗)の表現に敏感に反応し、クライエントが感じる困難と治療者が感じるクライエントの問題とのすり合わせを行っていきます。またそのプロセスにおいて「本物の感情」にとどまれるように支持的、共感的な態度を維持し、ボディスキャンを用いてクライエントの身体的な変化を言語化したりもします。自分で自分の感覚に気づく、自分で自分をマネージする、そのために二人で自分の状態を観察する、だから対面で、だからビデオで細やかに、なるほど、という感じがします。

坂田さんも私もお互いCBTや精神分析という専門性を掲げて開業で臨床しているせいか、外側の理論にも異質なもの、未知なものととして対立的、あるいは二分法的に関わっていくのではなく、自分の臨床とのすり合わせを行いながら違和感や共感をゆっくり咀嚼してそれを言葉で伝えていく感じみたいで(臨床はその相手との現実で理論ではないからでしょう)、打ち合わせでも穏やかな気持ちであれこれ考えられてとても楽しかったです。そして坂田さんはさすがに教えるのがとてもお上手で、私は個別学習塾に通う生徒のような気持ちも味わうことができました。

今回はzoomなので坂田さんと私も自分をモニタリングしながらお話することになるのですね。私はオンラインでもあまり画面を見たくない方なのでちょっとあれですが、みなさんのご協力のもと、私がすでに味わってしまった贅沢をみなさんにもお裾分けできるよう努力いたします。打ち合わせの時のようにのんびりやれたらと思うのでご参加のみなさんもゆるりと画面前にお越しください。そして楽しかったことは伝えたくなるはずなのでそのうちあちらこちらで書くと思います。ご関心のある方はお時間がある時にのぞいてみてください。

今日の東京は暑くなるようです。そういえば今回も北海道から九州までさまざまな地域の皆さんがご参加くださいます。オンラインのメリットですね。どうぞ良い一日をお過ごしください。

フロイトと宗教ー『ある錯覚の未来』

2019年の年末、薬学部の「人間と文化」という講義にお招きいただき、精神分析とは何かというお話をしてきました。


講義後、精神分析と宗教の関係について多くの質問をいただき、フロイト の『ある錯覚の未来』に書かれたことはいまにも引き継がれる議論であると感じました。
この論文もいくつかの日本語訳で読むことができますが、ここではキノドスの『フロイトを読む』にまとめられた部分を引用しながら少し書いてみようと思います。

フロイトは自分のことを「無神論者のユダヤ人」と公言しており、宗教と精神分析の関係という問いに取り組み続けました。フロイト が1927年に書いた『ある錯覚の未来』(岩波版フロイト全集第20巻所収)がそれについての代表的な著作ですが、発刊されるやいなや論争が巻き起こったと言います(フロイトの場合この著作に限らず論争は起きやすいですが)。

日本は自然そのものに神様を見出したり、八百万の神というほどに多神教的、汎神論的であり、一神教とは遠い文化なので、宗教そのものについて考える機会はほとんどないかもしれません。
しかし多くの国では宗教が戦争の原因になるほどにそれは人間に対して大きな支配力を持っています。そしてフロイトはユダヤ人です。それゆえこの問題に生涯取り組む必要があり、宗教からの精神分析に対する問いかけに応答し続ける必要があったのかもしれません。

フロイトは、反ユダヤ主義が根強く浸透した文化においてユダヤ人の家庭に生まれ、カトリック信者である子守女に養育されました。また、彼が生まれたときに与えられた名前もユダヤ名であるシュロモ、キリスト教名であるジギスムント(のちのジグムント)の両方だったそうです。

しかし、フロイトがユダヤ教、あるいはキリスト教など特定の宗教の内側から精神分析を語ることは決してなく、牧師たちとの文通においても精神分析がいかに宗教とは異なるかを語りつづけました。ちなみに『ある錯覚の未来』において想像上の論敵とされているのはフロイト の友人でもあったオスカー・プフィスターというプロテスタントの牧師であると推測されます。

フロイトは科学としての精神分析に希望を持っており、それが宗教に還元されることに抵抗しつづけました。
だからといってフロイトが宗教家が精神分析家になることは認めないというようなことはなく、今でも国際精神分析協会は宗教の問題は会員の自由に任せています。
同時にフロイトの思想への敵意にもかかわらず、カトリック教会が精神分析を公式に禁止することもありませんでした。

フロイトは宗教の源は幼児の無力感と「よるべなさ」であり、宗教的な表象は人類の最も強い欲望の現実化であり、錯覚であると考えました。

精神分析はフロイト のように非宗教的な精神分析家たちによって生み出されました。精神分析が宗教の問題を個々人に任せるのは当然としても、精神分析について考えるとき、この事実を踏まえることはとても重要なのではないかと私は思います。

また日本の宗教、日本の精神分析という文化に身を置く私がこの問題について考えるとき、日本の精神分析家である土居健郎の著作が多くの示唆を与えてくれます。
日本の精神分析を代表する概念である「甘え」を創造した土居は「宗教とイデオロギーの間」(『精神療法と精神分析』所収)という論考の中で、精神分析において「価値判断」の問題を棚上げできるかどうかについて論じています。

これについてはまた別の機会に書くことができればと思います。

短期力動療法と精神分析

今週末は『短期力動療法入門』から学ぶ会を催すので、精神分析との違いについてメモ的に書いてみました。これまで書いてきたものからの抜粋でもあります。

当日のテキストは
・ソロモン他『短期力動療法入門』妙木浩之、飯島典子監訳(金剛出版,2014)
・妙木 浩之(2010) 初回面接入門―心理力動フォーミュレーション.岩崎学術出版社
です。

『短期力動療法入門』は妙木浩之先生主催の短期力動療法研究会のメンバーで訳した本です。
原書名はShort Term Therapy for Long Term Changeで「力動」という単語は入っていません。

精神分析自体、日本でメジャーになったことがないので「まだあるんだ」と言われて説明させてもらうことなどもあるのですが、それが長期間を必要とするというイメージはみなさんなんとなくお持ちかと思います。また、そうなるとより使用しやすいものをということで短期化の動きが出てくるのもそれもそうかなという感じだと思います。そこで、長期の精神分析と同等の効果を短期、あるいは時間制限short-term,brief,time-limitedでもたらすために開発された技法に関する本がこれです。

この本を前もってざっとでも読んでおいていただくことを参加者の皆さんにはお願いしているので、その予習、復習にも少しお役に立てればとTwitterアカウントami’s officeもとりました。よろしければ覗いてみてください。それ以外のことも書いていますが。

短期力動療法は精神分析を基盤としています。しかし、その展開のプロセスにおいて、それは明らかに精神分析とは異なるものになりました。

精神分析はお互いのこころをフルに使いあうものなのでお互いに相当のエネルギーがいります。「こころを使う」というのは単に自分の気持ちに意識的になるというものではありません。精神分析でいうそれは、タブーとされているような人間の生の部分にフルに触れていくことであり、生活を維持しながらも自分の無意識に翻弄される自由を持つことと関係しています。

また、精神分析は異常と正常の間、意識と無意識の間でギリギリの体験を扱っています。こころが持つ破壊性と潜在性に対して精神分析が払う注意は独特のものです。

だからこそ精神分析の治療者になるのであれば訓練が必須で、まずは自分がこころの動きに十分にひたされ「こころを使える」範囲を広げておく必要があります。それは患者さんが体験することだからです。患者さんにとっても治療者にとってもやってみなくてはわからないというのはどの治療も同じですが、精神分析を受けることはかなり特殊な体験となると思います。

さて、精神分析がパーソナリティを含めたその人の全体性および潜在性に注意を漂わせつつ面接室内外で生じる様々な現象を細やかに捉えていくのに対し、短期力動療法はクライエント自身が問題と思っているところと治療者が困難な部分と考えたところのすり合わせを行いながら問題を焦点化していきます。

また、設定は対面で、自由連想法は使いません。夢解釈の技法も使いません。
フロイトの『フロイト技法論集』を並べて検討してみるとその技法が全く異なることがわかると思います。


主な技法は「抵抗解除」と「体験促進」です。ISTDPのセミナーなどを見てみると、Davanlooの抵抗に関するメタサイコロジーやマランが考案した三角形、head-on-collision with resistance(抵抗との正面衝突)の技法を学ぶことがその中心になっているようです。

『短期力動療法入門』第2章Davanlooによるインテンシヴな短期力動心理療法がそれにあたります。

たとえば2021年6月にAllan Abbassが行うセミナーの案内を見てみると
そこで学べる内容は以下です。
Davanloo’s Metapsychology of Resistance
Assessing and working with barriers to engagement
Determining and working with the front of the resistance
Psychodiagnostic assessment to determine degree and type of resistance
Nature and timing of interventions, including pressure, challenge, and head-on-collision with resistance
Partial and Major Unlocking of the Unconscious
Working with the mobilized unconscious


割とシンプルだと思います。
今回のテキスト『短期力動療法入門』の症例をお読みいただくとわかるように、
短期力動療法(特にISTDP)は、防衛解除に焦点化しアクティブで促進的に面接を進めていく技法です。
とてもシンプルでvividな方法ですが戦略的なので、言葉の使用についてもある種の型を自分に十分になじませておくことが必要そうです。

言葉の使用については妙木浩之先生、北山修先生の本をお勧めします。
私が一番お勧めなのは妙木先生の『精神分析における言葉の活用』という本です。北山先生の『意味としての心 「私」の精神分析用語辞典』も心を表す言葉について感覚を豊かにしておきたい方にはぜひお勧めしたい本です。

精神分析の側から考えると、このゆとりなき時代、精神分析という治療文化が廃れないためには短期力動療法のパイオニア(フロイトを含むが)たちがそうだったように、精神分析の歴史に根をはりつつ、より広く社会に答えるべく私たちにできることは何か、ということを模索し続けることが必要なのでしょう。

今回はCBTの専門家が対話に応じてくれました。そうすることでそれぞれが自分の思考を超えて考えていけるような時間になればいいな、と思います。

参照:
IEDTA:International Experiential Dynamic Therapy Association
この本の著者たちも紹介されています。
各技法はこちら。STDPもこのタイプのひとつです。

第8章今後の展望(David Malan)で紹介されている本。
タヴィストッククリニック:BalintとMalan
A Study of Brief Psychotherapy
Malan, D. H. 1963
マランを後押ししたバリントのことが書かれています。
バリントは医療と心理療法をつなぐ重要な役割を果たした精神分析家です。

『バリント入門』より引用
「一九五五年には、バリントは短期焦点心理療法を発展させるために、タヴィストック・クリニックとキャッセル病院出身の分析家たちとともに短期焦点心理療法ワークショップを立ち上げた。」
「…アセスメントは、最初にアセスメントをおこなった二人の担当者の報告書によって進められる。その報告書はワークショップで議論され、治療計画が策定される。このことを通じて、差し迫っているように思われ、それゆえに短期の作業に手早く導入することができそうな葛藤の焦点を配置したのだった。」
「患者の歩調にあわせて情動的な構造がゆっくりと展開していくことが許される分析とは対照的に、短期療法の目標は、グループのメンバーがよく言うように、「素早く入り込み、深いレベルで作業し、すぐに切り上げること」であった。」
「そのためには、開始の時点から、はっきりと意識された行動計画を組み立てる必要があった。治療者は、無意識の構造を見抜くことができるように、分析に相当精通していることが要求された。」←短期力動療法では初回重要は殊更重要です。

この本も歴史を外観したり、マランのインタビューが読めたりして興味深いです。

Theory and Practice of Experiential Dynamic Psychotherapy
ByFerruccio Osimo, Mark J. Stein

「短期力動療法入門」打ち合わせ①

週末はGWに行う『短期力動療法入門』の打ち合わせを坂田昌嗣さん(京都CBTセンター・京都大学大学院医学系研究科社会健康医学系専攻健康増進・行動学分野 助教)としました。

本については私のオフィスのサイトにも書きました。これは書き足しているうちに個人的な学習メモのようになってしまったので見にくいと思いますが・・いずれ修正します。すいません。

今回の打ち合わせは、坂田さんが以前勤めていらした精神科病院でのアウトカム研究の試みの話から「そういえばこの章のこのデータは効果量が高く出過ぎているのでは」という話になり、「心理療法の臨床試験でも、ネガティブデータは出版されない傾向にあるので、これらの効果量は少し差っ引いてみる必要がある(坂田さんのTwitterから)」と現状のアウトカムあるあるを教えていただきました。

すでに坂田さんがTweetしてくれていますがこういう例もあるそうです。「前々から注視しているけれど、UMINに登録のリワークマニュアルのRCT、2018年12月にフォローアップが終了後、なかなか出版されない。もう少しで世に出るんだろうか。これだけリワークが国内で広がってた以上、ネガでもポジでも現場への影響は大きいから、ぜひ公開してほしい。」

本当にそうですよね。私たちは「失敗から学ぶ」しかないところばかりなんだし、せっかく時間と労力をかけた研究なのだからぜひ公開していただきたいです。ネガティブなデータこそ大事だよと後押ししてくれる環境、思い切らなくても普通に結果を報告できる環境、もし今それがないならば今後できるといいなと思います。

以前、別のブログに書きましたが、精神分析はこれらの研究になかなかのせにくい構造を持っていると思います。ですが力動系アプローチであれば日本でも実践する人が多いと思うので、CBTのように「誰がやっても同じような効果がある」(ので安心してご利用ください)というのを臨床試験で出しやすいように思うのですが、海外と比べるとそういう研究って少なくないですか、基盤がぼんやりしているのかな、いう話もしました。

UMIN(ユーミン♪)やClinicalTrials.govのサイトも教えていただきました。

その繋がりでアトゥール・ガワンデ(Atul Gawande)の『医師は最善を尽くしているか 医療現場の常識を変えた11のエピソード』 というみすず書房から出ている本のことも教えていただきました。いまだコロナ禍にあるこの状況ではなおさら読むべき本なのかもしれない、とお話を伺いながら思いました。

これがひとつめのトピック。

ふたつめは「感情」に焦点をあてることについて。これはまた後日書きます(早くも電池切れです)。

今週は新年度が始まりますね。それぞれのペースでお身体に気をつけてお過ごしください。

『フロイト症例論集2』を読み終えました。

www.facebook.com/438749860050635/posts/818672185391732/

『フロイト最後の日記 1929〜1939』日本教文社もお勧めしてみなさんオーってなっていました。フロイトを読むといろんなことが身近になってその歴史も知りたくなるということでジョージ・マカーリの『心の革命』のお話も。

『I.R.S.ジャック・ラカン研究』

書肆心水さんから『I.R.S.ジャック・ラカン研究』No.17が届いた。「特集:今日のエディプス」が読みたくて注文しておいたのだ。

ラカンを読むのは難しいが、ルディネスコの『ジャック・ラカン伝』は面白いし、現代思想でも頻繁に引用されるので、数を読んでいるとなんとなく身近にはなれる。

臨床でも十川幸司、立木康介といったラカン派(十川先生は今もラカン派というのか不明)書き手が幅広い臨床家の橋渡しをする書物を書いている。立木康介編著の『精神分析の名著 フロイトから土居健郎まで』(中公新書)は必携だし、『フロイディアン・ステップ』や『女は不死である』などにはすでに触れた。

ラカン派というのは精神分析の中でも特殊な位置づけであり、このNo.17の原和之の論考の註では「ラカン派の外」のものとして藤山直樹『集中講義・精神分析(上)』(ちなみにこれも必携)が引用されている。

この特集で読みたかったのは「エディプスと女性的なるもの」のワークショップだが、パラパラしている限りどれも面白そうだ。

大学のハラスメント相談をラカンのディスクール論を応用して「被害者のディスクール」として論じる赤坂和哉氏の論考も興味深い。当然そこには「加害者のディスクール」もあるが、それが今後の加害者への具体的な対応策を見据えたうえで論じられているのは著者が大学人だからだろうし、意義深いと思う。

短い論考が多いこのような雑誌は隙間時間にぴったりなので楽しみたいと思う。

短期力動療法

GWに短期力動療法を学ぶ機会をもうけました。昨日は私がインタビューをさせていただく坂田昌嗣さんと初打ち合わせをしました。

お互いに単科精神病院での多様なあり方を体験しているせいか「枠」と「焦点化」に対する考え方は似ているように思いました。一方、「抑圧」「葛藤」「抵抗」といった精神分析がよく使う概念の使い方(そもそも使わないとか)は異なるようでした。

同業者の方とそれぞれがトレーニングを積んでいる技法の類似点や差異について話し合うと自分のしていることが相対化されて明確になりますし、なにより新鮮な気づきがあって楽しいですね。

坂田さんは認知行動療法だけがご専門ではありませんが、今回は認知行動療法について色々教えていただきました。

患者さんに身近なのは言葉上も実践でも「認知行動療法」のほうでしょう。私のところにこられる方も「認知行動療法を受けたことがある」あるいは「自分でやってみた」という方は多くいらっしゃいます。「自分でできる」ほどやっていることが明確で、伝わる言葉を持っているのが認知行動療法の素敵なところだと思います。

一方、私が非常勤で働くクリニックでは、専門をHPなどに掲載していないというか、特定の技法でお会いすることを前提にしていないので、「認知行動療法を受けたい」というご希望の方にはお会いしたうえでそれが「私の専門ではないのだけど」とお話を伺っていくうちに、大抵の方は「このままやってみたい」ということになります。

それは、認知行動療法家のみなさんやすでに体験したことのある方はそれが何であるかわかっていますが、まだ受けたこともない方はなんとなくのイメージをお持ちのままこられるからなんですね。

なので私は「自分はそれではない」という前置きをしたうえで自分ができそうなことを提示しながら困っておられることを明確にしていくお手伝いをしています。

臨床心理士の技術は特定の技法を使うこととは異なり全般的なものなので、アセスメントとマネジメントというどの技法にも共通していることをまずは行うということですね。

短期力動療法のように扱うべき事柄を焦点化して患者あるいはクライエントの回復に寄与していくために最重要である「定式化(フォーミュレーション)」はいかにも「技法」という感じがします。なので訓練が必要です。

短期力動療法の基盤である精神分析も今やマイナーですが、やはり特定の技法ですので厳しい訓練が必要です。

それでも「精神分析」という言葉を掲げている私のオフィスでさえそれを求めてくる方は少ないわけですが(これも大変興味深いことだと思います)、坂田さんのような話し相手を得ると、私が毎日試行錯誤しながらひたすら繰り返していることを伝わる言葉に置き換えることができ、とてもありがたいなと思いました。

精神分析という文化において、訓練で積み重ねていることを丁寧に実践につなげていくことを励まされた感じがします。

他のページですでに紹介している『短期力動療法入門』(金剛出版)が今回の企画のテキストです。妙木浩之先生の『初回面接入門 心理力動フォーミュレーション』(岩崎学術出版社)も合わせて読んでおいていただきたいと参加者のみなさんにはお伝えしています。

どちらも決して「入門書」とは呼べませんが、フロイトを読まないで精神分析を語るのが難しいのと同様に、この技法を使うのであれば読む必要のある本だと思います。

こころの専門家が出会い、語り合うことで援助を求めてこられるその方がその方らしくあるためのお手伝いをより効果的にできるように願って緩やかにつながっていくことを大切にしていきたいです。

『パーソナル精神分析事典』

中島隆博先生(直接教えていただいたことはないが私は「先生」と思って本を読んでいる)は、「パーソナルなものは、所有や消費とは異なり、他者とともに形成される自らの経験とその変容からなる」とハーバー・ビジネス・オンラインのインタビューで述べておられた。他のところでも「パーソナル」の意味については言及されている。

『パーソナル精神分析事典』は松木邦裕版「自己を語る」ともいえるかもしれない。

記事はこちら↓

『没後70年 吉田博展』はじまる。

「おかもとあみのブログ」に記事を書きました。

参照、引用した本です。

西見奈子『いかにして日本の精神分析は始まったか

西さんのこの本については以前、オフィスのサイトにもちょっと書いた。

フロイト最後の日記』日本教文社

北山修編著『フロイトと日本人 往復書簡と精神分析への抵抗』

精神分析の本(藤山直樹『集中講義・精神分析』など)

2020年8月15日に書いた記事を転記。5ヶ月前の土曜日、私はビオンのセミナーを読んでいたのか。セミナーを読む、と書いてみてなんか変だなと思ったけど、もう会えないのだから読むしかない。一緒に現場にいたかったな。ここでは会いに行ける分析家の本のことを書いてみた。以下、転記。

>精神分析における大きな流れはフロイト、クライン、ウィニコット、ビオン、ラカンに代表されるだろう。サリヴァンやコフートもそうかもしれない。

今はビオンのセミナーを読んでいる。セミナー記録を読むときはそれが聴衆に向けた話し言葉であることに注意しないと学びにくいかもしれない。日本の精神分析家の福本修先生がビオンの『タヴィストック・セミナー』のあとがきで、セミナーの一部をネット上で見られることに言及して百聞は一見に如かずと書いている。そして「(笑)や(嘆声)(騒然)などと的確に加えられれば、更に分かりやすくなったかもしれない。しかし文字情報のみからそれを読み取るのは不可能」であるため「ビオンが真顔で極端なことを言っている箇所では、冗談が含まれている可能性を考えていただきたい」と書いている。文字からはビオンが「真顔」かどうかすらわからないけど。

「冗談が含まれている可能性」はとても大事だ。この前ここで書いた『ピグル』の翻訳も治療セッションの記録なので翻訳がとても難しかった。そしてこれも前に書いたけど言葉とこころの不確かな関係は形にならない話し言葉にこそ現れるので文字にするのは難しい。

その点、まだ生きている(つまり会おうと思えば会える)日本の精神分析家の書いたものは雰囲気を捉えやすいので面白い。今は動画だって残せる。が、実際に会わなくても、動画を見なくてもその語り口が生き生きと伝わってくる講義本は存在する。代表的なものが日本の精神分析家の藤山直樹先生の『集中講義・精神分析』(岩崎学術出版社)の上下巻だろう。

日本は精神分析家が少ないのでその全ての講義を比較することも可能かもしれない。

北山修先生のことは多くの人が知っているだろう。彼もまた日本の精神分析家だが、歌手や作詞家としての北山修しか知らない人の方が多いかもしれない。大好きだった「あの素晴らしい愛をもう一度」の作者である北山修が、セミナーなどで指導してくれる北山先生であることは私もずっと繋がっていなかった。彼の本はどうだろう。私には読みにくい。なぜなら言葉の厚みがすごいから。圧倒されてしまう。でも話をきくとわかる。とても面白い。歌い手でもある著者は語りの名人でもある。本だとわからないまま置かれていた言葉たちが呼吸しはじめる。北山修の場合、さすがにメディアの人でもあるのでその語り口は探せばいくらでもきける。もちろん歌声も。

さて、先に挙げた藤山先生の講義本は突出している。語り口を知らなくても想像ができるほど字がものを言ってる稀有な講義録だ。彼が脚本を書く人で、演出家であったことも大きく影響しているのだろう。私は音楽も演劇も好きだが、音楽が圧倒的にその歌い手に目を向けさせるのに対して演劇はそれが演じられている空間全体にいつの間にか自分がとりこまれる体験をさせられる。それをどう感じるかはまた別の話で、その演劇の力を知る著者のこの本に対しても好き嫌いは分かれるだろう。もし、静かな語り口を好む人がこの本のテンションにおされてしまって途中で読むのをやめてしまうとしたらそれはそれでもったいない。精神分析の歴史とエッセンスをこれだけコンパクトに明快にまとめた本はほかにないだろうから。特にフロイトの仕事について書かれている上巻は必携。

でももしそういう場合は、同じ著者の『精神分析という営み 生きた空間を求めて』藤山直樹(岩崎学術出版社)を読まれるといいかもしれない。同じ著者とは思えない語りがここには登場する。これはその後『続・精神分析という営み』『精神分析という語らい』と続く第一冊目だが、もしこの中から一冊だけ選ぶとしたら断然これだと思う。誰もがそういうと思うがどうだろう。いずれにしても教育者としての語りと精神分析家としての語りとはこれほどまでに異なるとわかるだろう。

今こうして色々書いてはいるが、これらはあくまで精神分析家個人の公に向けた語り口の話であって、精神分析セッションでその分析家がどう語るかはその患者しか知らない、ということも付け加えた方がいいかもしれない。同じ分析家であっても患者によって、ときにはセッションごとに語り口は変わる。変わってしまう。あるいは変わったように感じてしまう。転移とはそういうものだ。精神分析における語りはその場の二人によって作られる。当然講義とは違う。書き言葉にできるのはほんの一部だ。

精神分析で起きる出来事を静かな語りの文字にすることに成功している本といえば、同じく日本の精神分析家の松木邦裕先生の『不在論』(創元社)がある。この本は精神分析が明らかにする根源的不安に近づく患者と治療者のこころの動きをフロイトが作り出した大きな川のような思索に乗せる。そしてすでにそこでの微細な震えや激しい揺れを体験したことのある著者が、患者のそれを静かに見守り、時に言葉にしながら共にいる。その様子が大人の語り口で文字にされている。なぜ大人かといえば、著者はこの二人がいずれ別れること、いやこの二人に限らず、私たちはみないずれひとりになるという現実に対する深いもの想いがあり、自らを律したような静けさを保っているから。

著者の息遣いを探しながら、感じながら本を読むことは楽しい。でも精神分析で言えばこれもすでに書いたことだがそれは「受ける」ものであって「読む」ものではないだろう。

幼い日に本で読んだ大切な人との別れ、異質なものに対する差別、自然の大きさ、私たちは体験することではじめてそれがどんなものかを知る。読むことと体験することは入れ子になっている。本を開いたら草花がニョキニョキと生えて、いつの間にか自分がそこに立っていた、そんな本があるのはそういうわけなんだろう。

ちなみにカレーが美味しい店は珈琲も美味しいという。逆も然り。神保町の喫茶店でカレーと珈琲と本で過ごす土曜日もいいかもしれない。

インパクト

昨年8月18に日にnoteに書いた記事です。半袖だったのでしょうねえ。早く暖かくならないかな。

noteの記事をもうひとつのブログに少しずつ移行していたのですが、ただ移すだけの行為も労力が要りますね。ロボットになった気分でサクサクやれればいいのだけど、設定の確認をしたり、記事読み直しちゃったりするのが人間というものでしょうか。「転移」はtransfarの意味ですが能動的かつ受動的な現象というのは行為を超えているからなあ、など考えました。というわけで、以下転記です(なんだかここに移す方が楽な気がする。手続きの数が少ないんだな)。ところで、これを書いた直後に読んだ東畑開人さんの論考、心理学を俯瞰する力作でした。記事の中身とは関係ないのですが。はい

以下転記。

「治療は文化である」という言葉、というか、そういう思想(?)を嫌う人がいるのを知っている。大抵の場合、それは結構個人的な事情からだったりするわけだけど、みえない人たちの口コミや☆の数が情報として優先されがちな現代、たとえばある程度有名な人が「治療は文化ではない」とか呟いたら、一気にその意見が優勢になったりするのかもしれない。

本日、雑誌『臨床心理学増刊号』として『治療は文化であるー治癒と臨床の民族誌』が発売された。魅力的な書き手たち(私は同業者の東畑開人氏の論考目当て)によって書かれたこの雑誌は「治療は文化である」ということをこれからの共通理解にするのだろうか。

マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」、カルロ・ロヴェッリの「時間は存在しない」など、こちらが自明としているものを否定する書名は「え?どういうこと?」とこちらを少し前のめりにさせる。でも「治療は文化である」はどうだろう。「そうね」とあっさり受け入れる人もいれば、反発を覚える人もいるだろう。いずれにしてもそんなにセンセーショナルなフレーズではないと思う。もしこの雑誌が「治療は文化ではない」だったらどうだろう。反応は変わらない気がする。そのくらい「治療」とか「文化」というものは曖昧に使われてきた言葉のような気もする。

インパクトは素材がどれだけ自明かによる。もちろん治療過程で患者さんや治療者が感じるインパクトとはじわじわ感じられるものだったりするから書名に対するのとは異なるけど、精神分析の場合。

今日も暑かったけれど秋の風を感じた。立秋の時に聞いた秋の虫の音はインパクトあったけど今や「お、今日も」という感じ。

心理療法を再考させてくれる東畑さんのから読むことにしよう。

「好き」を失うこと

自分が好きなものや場所を奪われることほど辛いものはない。だって好きなものは何かを捨てた体験の延長にあるから。

自己肯定感とか承認欲求という言葉を私はあまり使わないが多くの方が使うのを聞いてきた。

多くの場合、それは非対称の関係においてその人より「上」と「社会」が見なすような人の存在が想定されていた。

いつのまにか内面化されるその存在を、あるいはそういう存在の視線を気にするあまり、自分が何を好きで、何を欲望しているのかを知ることができなくなっている人もいる。それらを奪われたと感じている人もいる。

「趣味がない」という悩みも多く聞いてきた。英会話を習っていたときに、hobbyは日常の延長というより結構本格的な遊びだからfree timeに気楽にするなにかではない、と教えてもらった。そう考えると「趣味がない」というのは悩むことではないかもしれない。

一方、ちょっとした時間にそれをするとほんのり幸せになったり、ちょっと楽しくなったりするものがない、つまりコーピングスキルが少ないと確かにそれはちょっと辛いかもしれない。もしそうなら、それは周りの人に見つけてもらうといいかもしれない。意外と自分で気付いていないだけで、「あなたはいつもそれやってるとき楽しそうだよ」というものがあって、言われてみればそうだ、ということはひとつやふたつはあるものだ。

朝焼けのはじまりに気持ちが少し落ち着く。今日も玄関を出られてほっとする。ちょっとした寄り道にちょっとワクワクする。寒いのに小さな花にほっこりした・・。「スキル」というまでもなく、私たちは小さなことを発見してあたたかな気持ちになる能力を持っている。誰でも。

なにかを好きになったり、楽しんだり、些細なことであっても、見えないなにかであっても、その価値を信じるというのは、絶対に誰にも奪えない権利なので堂々と大切にしていきたい。

でも奪われてしまう「好き」もある。

それが本当に好きで、それを楽しむためならいろんなことを我慢できて、いろんな不安を希望に変えられるほどにそれを信じられる。それが奪われることがある。正確にいえば「好き」という気持ちは奪われない。ただ、場所がなくなったり、身体が動かなくなったり、様々な事情に追い詰められ、それを手放したほうが安全なときもある。とりあえずこころや身体が壊れないことをなによりも優先させなくてはいけないときがある。

もちろんその場合も小さなコーピングスキルを最大限発揮させてなんとかやり過ごしたり生き残ろうとする無意識的な力も私たちは持っている。それに「いずれまた」と祈ってくれる人もいるかもしれない。

でも意識的には相当に絶望するだろう。いろんなことを犠牲にして愛してきたものやことを失うことは、生きていく気力を奪われることと同じだ。これを大切にするためにここまでしてきたのに、というこれまでの喪失が顔を出す。好きなものがあるからなんとか耐えられてきた痛みがじわじわと再燃する。

とにかく耐えること、持ちこたえること、今の時代、そんなギリギリのところに立たされている人は多いかもしれない。自分の権利を守ること、それはひとりではできるものではない。当たり前に守り合うこと、それは本当にお互いがギリギリの状況にならないと生じない瞬間かもしれない。それでもそんな瞬間を私たちは起こしうる。

そのために今日も少しだけカーテンやブラインドに隙間を作ろう。ほんの一筋でも光を浴びよう。人と会いたくなければベッドから空を眺めよう。なんとかやり過ごす、その一歩一歩が「いずれ」に向かっていることを信じられたらと願う。

花壇

臨床状況はその人と患者しか知らないことなのでそれを外に出すときにはそれとわからないように出します。それでも患者さんはご自身のことだと思うでしょう。なぜならひとりの治療者ができることはそんなに多くないですし、人が抱える問題や交流の個別性をある程度剥いでしまうと似たような姿になるからです。だから本を読んで「自分のことだ!と思った」とおっしゃる方は多いです。

一方、個別性に触れることができるのは、専門家同士のクローズドな事例検討会でしょう。専門家は専門家集団の中のひとりとして仕事をしているので自分のしている仕事を第三者にみてもらう必要があります。そこで事例を提示する立場では、私は私たちのことを話すときってこんな感じになるんだ、とか、第三の目を通すと私たちはこんな感じなのか、という学びや新たな課題を得ます。また、提示してもらう立場からは、それまでの訓練で身につけてきた基盤をたよりに、その治療者と患者あるいはクライエントの固有のあり方を発見すると同時に、精神分析過程が持つ普遍性を再発見します。ただ集団というのはなかなか難しいので、基礎に基づき、個別の実践を十分に体験している先輩や仲間との出会いがとても大切です。

そういえば私は、実践が伴っていなかった頃は、書き物には本当のことが書いてあると思っていました。困難な状況にあうと似たような事例はないか、いろんな本をひっくり返すようにして探しました。たしかに、本には大切にしなくてはいけないこと、心に響く言葉がたくさん書いてありました。私たちが面接室で体験しているようなことも書いてありました。それはそうです。最初に書いたように症状や面接室で生じることは概ね似ているのですから。でも、私は、私たちを本の中に見つけることはできませんでした。個別性というのはそういうものなのでしょう。それはどこかに書き留めておくことはできない性質のものだと私は知りました。

その後もスーパーヴィジョンを受けたり、精神分析的心理療法を受けるなかで、個別性、固有性と普遍性の往来は続きました。

休み明け、臨床は全身運動だな、と感じました。この年末年始はどこにもいかず、これまで読んだ本をパラパラとしながら、主にウィニコットばかり読んでいたので、仕事復帰もスムーズかと思っていたのですが、実際は全く違いました。何年やってても実感というのは新鮮なものです。面接中の身体とこころってこんな感じ、という実感が再び生じました。

特に精神分析の場合、頻回の設定で、カウチに横になって自由連想をする患者と、その背後に治療者がいるという二者状況は特殊な時空間をなしています。そこでは、自己と他者、日常と非日常、一回性と連続性、同一性と差異性の関係におけるふたりの運動が展開されます。昨日の私たちと今日の私たちが全く同じということはないんだな、そういう実感もそこで生まれていきます。

この個別の、ふたりに固有の体験の積み重ねが変化をもたらすためのもっとも重要なエレメントはやはりリズムであり、それを作り出すのが頻回の設定でしょう。単に回数が多いということではなく、連続していることが重要だと私は経験的に思っています。「切断」「分離」というモメントが精神分析作業を促進させること、そのような固有の体験に基づく思索によって、フロイトが導き出したのが「対象喪失」についての考えではないでしょうか。

フロイトの『喪とメランコリー』はフロイトが臨床経験を通じて達したメタサイコロジー論のひとつです。また、精神分析設定は対象喪失を身をもって体験するための仕掛けといえます。死を前提として生きている以上、喪失は免れません。そして、私とあなたが同じではないということ、別々であるということを実感することの困難や痛みも、ひとりきりでない以上、避けることはできません。だからこそ精神分析は、私たちが「対象」と出会うことで生じる「切断」「分離」、そしてこれらにまつわる感覚に対して敏感であろうとします。

私がこのサイトを「精神分析という遊び」と名付けたわけについてはちょこちょこ触れてきましたが、「遊び」というのは真剣で切実なものです。子どもたちを見ていると彼らは本当によく笑い、よく怒り、よく泣きながら遊びます。そうやって自分のこころと相手のこころ、自分たちのこころと自然に出会っていきます。そしてそれを遊びとして成立させているのが時間です。「遊びの時間」にはいずれ終わりがきます。「切断」「分離」のモメントです。それがある種の切迫感をうみ、真剣さを生じさせると同時に安心感をもたらします。これが一生続くのかあ、という感覚と遊びは無縁です。様々な価値判断もとりあえず棚上げされ、シンプルなルールでできることも多様性に開かれています。精神分析も同じです。だから私はそれを「遊び」と表現してみました。

それでは精神分析におけるルールとはなんでしょう。それが書かれているのが『フロイト技法論集』です。もちろん書き物は書き物であり、フロイトがそれを実践していたかどうかは別の話です。ルールには逸脱がつきものというだけなく、フロイトは創始者なので、何か本質的にまずいことが起き、それについて真剣に考えるプロセスなくして精神分析は生まれなかったのです。

ルールがあっても、正解はどこにも書いてありません。出会ったら始まってしまう、そしていずれ終わりが来る、そういう現実において自分として生きるということ、それを志向する、あるいは思考する方には、それについて長く厚みのある思索と実践を積み重ねてきた精神分析が役に立つでしょう。現代のスピードのなかでマイペースに花開いていくこと、即効性もなく、マイナーでプライベートな治療法である精神分析は、そういうニードに開かれた技法であり治療文化なのでしょう。

玄関脇の小さな花壇には小さな芽がたくさん出てきています。毎年「こんなに早く出てきちゃって冬を越せるのかしら」と心配になるのですが、寒い間はじっとしていてあまり大きくなりません。私たちもいろんな場所で育まれて無理なくやっていけたらいいかもしれないですね。暖かくなって小さな白い花をつけるのが楽しみです。

1月8日

今年も8日が過ぎようとしている。昨日は昭和が終わった日だったそうだ。「そうだ」というか「そういえばそうだった」と思い出す。昭和64年1月7日だった。

当時、私は今の自分がこんなであることを想像もしていなかった、と思う。ちょっとは思い描いいてたものと重なっているのだろうか。それすら忘れてしまった。フロイトにはすでに出会っていた。それは覚えている。もちろん本で。(これあえて書かないといけないのはどうかと思うけど必要な時もある。)

今こうして生きてるから過去のことを語れて、未来もなんとなくあるような気がしている。でもそれは本当は誰にもわからないことなんだよね、というのも今は以前よりずっと意識する。大切なものが増えたのかもしれない。あるいは失いたくないものが。数えられるものばかりではなくて。

生きられたはずの時間、生きられたはずの空間、無や空虚を含まない現前というものはない、というようなことをメルロ=ポンティはいった(違ったらごめんなさい)。それは私たちがこれから生きるかもしれない時間や空間のことも言っているのかもしれない。そこには常に無や空虚のような穴があると。

連綿と続いてるかのような時間と空間で時折ポツンとひとりぼっちになる。いつの間にか時代が変わっている。気付いたら自分だけ生き残っていた(死んでいたらそれすら気づけない)。そんな瞬間がそれかもしれない。

精神分析が毎日のように患者と会っていくことはそういうものと安全に出会う装置となっているように思う。精神分析における休暇の意味については以前『ピグル』(ウィニコット著)の記事を書いたときにも少し触れた。休み明け、患者さんたちが語る言葉が私に響く。

「ここがあるから」

そう言ってかろうじて持ち堪えている人たちに私たちは今日もできることを探す。そしていつも、できる限り日常を維持することを選択してきた。先のことはわからない。でもどちらにしても、これからも瀬戸際で、どうにか持ち堪えることをしていくのではないだろうか。そこで共にいる。それを可能性とよんでいくのではないだろうか。

1月8日の日めくりにはこんな句が載っていた。出会いも、すれ違いも、期待も、失望も、ささやかに中立的に体験していけたら素敵だなと思う。

遥かなる春著こちらへ来ず曲がる 山口誓子

震災後10年

もうすぐ10年ですね。

東日本大震災。

みなさんはあの日、あの時、どこで何をしていたのでしょう。

河北新報社」という新聞社を知ったのは震災があったからでした。

地方紙の発信力の重要性と必要性を知り、そういえば実家にいた頃も地方紙を読んでいたな、と思い出しました。
知っている世界と知らない世界を橋渡ししてくれる領域は、あまり吟味なく情報が拡散される現代において、特に重要かもしれません。

先日、ここで少し書きましたが、いわき市のローカルアクティビスト小松理虔さんの仕事もそういう意味でとても意義深いと思います。彼の『新復興論』(ゲンロン叢書)はぜひお勧めしたい一冊です。


彼は、被災地を当事者の言説で閉じ込めてしまわないこと(言葉は違うかもしれません)、むしろ観光地のように三人目に開かれた場所にしていくことが大切だというようなことを書いています。そして実際、いわきで外に開かれた場作りを展開されています。

「べき」や「正しさ」で自分を縛るのではなく中途半端に他者に開かれ、ともに色々な気持ちになりながらなんとなく色々やっていくこと、精神分析もそうですが、生活というのはそういう時間の積み重ねであり、それぞれの生活が大切にされる「べき」(これは「べき」でいい気がします)と思います。


あの震災からの10年間、最初は2011年5月、それから数回、避難所や仮設住宅へ出向きました。「支援」という名前で。「支援」といってもただ一緒にいさせてもらったような時間でした。

そこで出会った人たちを、見た光景を、聞いた話を私は忘れないと思います。そして何度もあとからやってくる痛みも突然溢れてくる涙も私は止められないと思いますし、その必要もないかなと感じます。

昨日も書きましたが「いずれ」と願うこころを守るために、まずは自分のこころをなんとなく開いておけたらいいなと思います、今日も。

守り守られるもの

私たち心理職の仕事のひとつに危機介入、緊急支援があります。

それらは主に事件や事故が起きたときに必要とされますが、そこには「こころは守られるべき」という前提があると思います。

こんなこといちいち書く必要などないと思いつつ「あっているよね?そうだよね?」という気持ちにもなるのが不思議です。

私たちの仕事は、危機状況のアセスメントをすると同時に、その当たり前の前提が見失われていないかどうかに注意を払うことです。

明日(もう今日ですね)東京でも緊急事態宣言が出されるようです。

なにかで区別されたり、分類されたりすることなく、誰のこころも守られるべきだ、

という当たり前の前提が共有されることを願います。

何かを諦めたり、耐えておられる方が「いずれ」と希望をもてるように具体的なサポートがあることを願います。

私たちも危機にともに立つ者として、同時に、サポートを提供する側として、できることを考え続けています。

こころは複雑なので即効性があるかと聞かれれば時々、とか部分的に、と答えざるをえないのですが、こころが非日常に覆われ、まいったり壊れたりしてしまわないように、日常を維持することを大切にするのが私たちの仕事です。

まずはそれを維持したいと思います。

守られるべき権利、守られるべきこころ、あえて言わなくても、と思いつつ忘れないように書いています。

どうかみなさん、ご健康でありますように。

「三人目」

小松理虔さんが『新復興論』(ゲンロン叢書,2018)の「おわりに」でこう書いておられます。


「一人になってどこにも行こうとしなくなるのか。二人に分かれて足踏みの議論に明け暮れるか。私たちは、とても狭い世界のなかで悶々とさせられているように見える。私たちは「三人目」を探さなければいけないのではないだろうか」


「私たちの地域づくりは、娘のような近くて遠い存在、いわば「三人目」の存在を意識してきただろうか。知らない人間は語るな。被災者でなければ分からない。福島のことは福島が決める。そんなことを娘に言ってしまったら、娘は一生、私たちが経験したことを知ろうとは思わないだろう。娘のような「三人目」の存在を意識しながら、地域づくりが行われなければならない。」


福島県いわき市小名浜で東日本大震災に被災し、原発事故を経験した小松氏。ご本人のお話を伺ったとき、その「開かれ方」に驚きましたし、安心もしました。


果たして私は、私たちは、「三人目」に対して開かれた存在になれるでしょうか。

あれこれ考えたり眠ったりしているうちに今年も早三日。また「日常」が戻ってきますね。昨年から日常もカッコ付きになってしまった気もしますが、できるだけそれぞれの日常が守られることを願ってやみません。

『フロイディアン・ステップ』

2020年3月、人数が制限される前の小寺財団セミナールームで、あるイベントに出た。福本修先生が講師をされる小寺臨床講読ワークショップ特別編、精神分析家の十川幸司先生を招いた会だった。私はワークショップ0Bとして参加したが、こじんまりとした、発言しやすいサイズと雰囲気で贅沢な時間を過ごせたと思う。今となっては特に。

さて、十川先生は2019年9月に『フロイディアン・ステップ 分析家の誕生』という本を出された。2000年からこれまで『精神分析への抵抗』(青土社)、『精神分析』(岩波書店)、『来るべき精神分析のプログラム』(講談社)において精神分析を新たな理論モデルによって基礎づけることを試みてきた十川先生の最新刊、シンプルでミニマム、かつヴィヴィッドな書き方はおなかいっぱいになりやすい私にはいつもちょうどよく、多方面から豊富に引用される文献にも自然と手が伸びた。

この『フロイディアン・ステップ』はこれまでの「なんかすごく緻密だけどちょっと不思議で新しい感じ」(個人的印象)とは異なり、とことん精緻なフロイト読解に基づいており、私たちはこれを読むとフロイトを読まざるを得なくなる。「フロイトを読む」という試みが終わりのない作業であることは、いまだに新訳が出続けることからも明白だろう。しかし、十川先生のようにフロイトの身体やリズム(この本の主題でもある)を意識して同一化しながら読んでいる人は精神分析家でも多くはないのではないだろうか。というか、私がフロイトに関する本を読んでいて思うのは、フロイトがいつも先に行ってしまって、相手はそれについていくために、あるいはついていけなくていろんな様子になっていて(転移状況だなと思う)、ビオンとベケットが連れ立っているような対等なイメージをフロイトと誰かとの間に見出しにくいのだ、私には。

でも十川先生の本にもつ印象は違う。十川先生はフロイトに敬意を払い、精神分析に対する一定の不快感を保持し続け、抵抗を試みながらその内側にとどまり続け、フロイトと対話をしている精神分析家という印象がある。したがって、こうして書き出されたものはいつも、フロイトと精神分析に対してフェアで、私が精神分析との間に、あるいはほかの書き物に感じるような興奮しすぎたりいじけすぎたりするような非対称がない。その印象は、これらの本が書かれるまでにどれだけのワークがこころの中で、あるいは患者とともになされたのだろう、という想像にも繋がる。十川先生の症例の書き方の好ましさはこのあたりにある。私は荒ぶるものはこころに置いておける、つまり何かをワークスルーしたような静かな書き手が好きなのだろう。

言い直すが、フロイトを読んでいない読者は最初はこの本の難解さに戸惑うかもしれない。しかし、本書で「理論構築においても、また臨床実践においても、集中と拡散を繰り返しつつ観察を行うこと、これがフロイトの方法の礎となっている」と書かれているように、十川先生もフロイトの言い分を優れた咀嚼力で味わい、深いところまでわけいったかと思うと、ご自身の臨床体験に戻り、視野を広げ直し、再び焦点を定めると、そこからまたフロイトとの対話を始めるという方法をとっているようにみえる。このときに私が持つフロイトと十川先生のイメージは、ビオンとベケットのそれだ。隣にいる感じがする。したがって、大人の話をそばで聞き、わからないながらも面白がっている子供の気持ちでこの本を読むことは可能だろう。非対称の二人の間にいるのはなかなか居心地が悪いが、対等な二人の間では自由が得られる。

ところで、私は楽しみにしている本はすぐに買ってすぐに読む。なぜならすぐに次の「楽しみにしている本」が出てきてしまうから。難しくてもなんでもとりあえず読む。講演会のときに途中で質問を挟まず耳をすますのと同じだ。とりあえず身体にいれて、その感触を手がかりにまた読み直す。この本もそうだった。

付箋だらけになったこの本を携えてB&Bでの十川×立木康介対談にもいった。ラカン派の立木康介さんもまた繊細でオリジナルな書き手としてとても魅力的で、昨年2020年に刊行された『女は不死である』(河出書房新社)は前作の『狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛』と合わせて精神分析における「女性的なるもの」を再発見する必要を感じる読者にお勧めしたい一冊である。立木氏の書き方には、「フランスの香り」的なものを勝手に感じてしまう。それがなんであるか私はよく知らないが、ラカンと女たちの関係の生々しさがそういうものなのではないかと想像している。

この対談も多くの点で示唆的だった。ご興味のある方は「週間読書人2020年1月24日号、対談=十川幸司×立木康介 <フロイトはいまだ読まれてはいない>『フロイディアン・ステップ』(みすず書房)刊行記念対談をお読みいただきたい。検索すればすぐに見つけることができる。

十川先生は本書でフロイトの5大症例(ハンスを除く)の再読とともに、フロイトのメタサイコロジーを、主にフロイトの中期以降(分類は本書の冒頭でされる)の方法論と概念(原欲動、ナルシシズム、自我とそれに結びつくもの)を再考する。特にこれまでの著書でも追ってきた倒錯論にはさらなる磨きをかける。ここで参照したいのは2018年に十川訳が刊行されたフロイトの『メタサイコロジー論』(講談社学術文庫)と欲動論からフロイト理論の見直しを図ったラプランシュの『精神分析における生と死』(金剛出版)である。これらにおける訳者解題は本書を読む上で大変助けとなるだろう。ビオンのα機能を意識していえば、十川先生の咀嚼力はその解題において際立っている。また、フロイトをはじめとした精神分析理論に立ち返りつつ、自分の臨床経験を深化させる、フロイト読解と臨床経験の「共振」(あとがき)、あるいはこのような二重作動は十川先生の書く仕事を貫いているといえるだろう(『来るべき精神分析のプログラム』参照)。

本書の最後には「リズム」という観点が導入される。もちろんこれもフロイトの残した問いに応える形で書かれている。「快不快の感覚に関わるものとして、量の増減だけではなく、その時間的契機(リズム)を新たな要因として導入」したフロイト 、十川先生はこれを欲動の「飼い慣らし」、分析の終結を把握するための観点として用いるなかで、精神分析過程を自由連想、リズム、治療的交流という3つの要素を用いて再定式化する。これはコロナ禍における精神分析家の仕事を考えるとき、何が失われたかを明確にしてくれる定式化でもある。

フロイト以降、クライン、ウィニコット、ラカン、ビオンをはじめとした多くの分析家が、オリジナルのメタサイコロジーを書いてきた。十川先生のこの本はそういう一冊だと思う。つまりこの本は、フロイトを通過し、それ「になった」ひとりの精神分析家のメタサイコロジーなのだ。これまで引用してきたダニエル・スターンの理論を「あまりに人間的な」モデルとして手放し、私たちの生を規定しているのは欲動であるとしたこの『フロイディアン・ステップ』は精神分析の本質にかかわる言葉の使用についても変更を迫るだろう。少なくとも私は迫られているように感じた。それを覚えておくために、これを書いてみた。本書の内容については書評が出ているだろうし、それぞれお読みいただくのが一番良いように思う。できたらこれまでの著作と連動させながら。

良いお年を

今年最後のゴミ収集日の朝です。ついでに少し歩くと「ここってこんなに広かったんだ」という更地の上空を飛行機雲が横切っていました。


保育園のちょうどお散歩の時間、ひとりが突然走り出して公園のフェンスにはりつきます。
音だけでそれとわかるほどゴミ収集車が大好き。次々に集まって声をあげています。

素早く車から降りてたくさんの袋をあっという間に車の後ろに投げ入れて、それを繰り返しながら少しずつ遠ざかる彼らに子どもたちは夢中です。

多分単に勢いにつられている子もいるのですがなんであれ平和でかわいらしい光景です。

作業をしてくれるみなさんもこの景色には慣れっこなのでしょう。「ゴミしゅーしゅーしゃさーん」と声をあげる彼らにニコニコと手を振り返してくれます。

今年もみなさんそれぞれの場所で大変お疲れ様でした。

コロナという見えざるものにかなり影響を受けた一年だったと思います。ウイルスの時間的な区切りがどうなっているのかまるでわかりませんが、年末年始が少しでもこころにゆとりを与えてくれますように。

どうぞお身体に気をつけて、良いお年をお迎えください。

とりあえず

土曜夜は会議やミーティングが多いです。

いくつかの職場をかけもちして働く心理士は少なくなく、同じ場所で働いていても勤務する曜日が違って会ったことがない、忘年会や新年会でしか会わないという同僚がいます。私の非常勤先では今年はコロナにより様々な変更があったためミーティングが頻繁になりました。いつもであれば使用する部屋は同じでもそれぞれの方法で患者さんとの時間を過ごせばよいのですが、オンラインの導入、消毒の徹底など新しい取り決めや取り組みが必要になったのが今年でした。

世界中、誰にとってもはじめての事態で、それまでのあり方をどのように変更するのか、それに伴い契約をどのように変更するのか、ということを考えるにはとりあえず集まることが必要でした。

正解のない事態。コロナ禍においてできるのは、それまでもしていた生活習慣を強化すること、いまだにそれは変わっていません。

こころの世界にも正解はありません。因果関係についてもとりあえずありがちな説明をすることはできますが変数が多いため、パターンが見出せたとしても確率の問題です。それはときにとても不安で辛かったり寂しかったり切なかったりします。

でもそんな時だからこそ共にいようとします。

そうやって想いを、思考を重ねることで共通項として浮かびあがってくるものをすくいとり、とりあえずそれを信じて行動し、その結果生じるこころの動きや事態を観察し、そこからまた試行錯誤を重ねていく。

臨床ではいつもしていることですが、何かを決定しなくてはいけないとなると少し事情が異なりますね。私のオフィスのウェブサイトは「とりあえずHP」という会社の作成ソフトを使っているのですが、この「とりあえず」がきかなくなると事態は大変になることが多いなと感じています。偶然ですがちょうどいい出会いでした。

お互いをねぎらうにもこの「とりあえず」が必要そうです。とりあえず今年も1年間お疲れ様でした。私はまだ仕事納めしていませんので、また同じことをいうかもしれませんけどとりあえず今日一日お疲れ様でした。

出会い2

小此木啓吾「フロイト その自我の軌跡」(NHKブックス)をパラパラ。

臨床をはじめてすぐに買った本。学生時代からの友人と慶應心理臨床セミナー(今は精神分析的心理臨床セミナー)に通いはじめ、小此木先生はじめ、狩野力八郎先生、丸田俊彦先生など、現在の日本の精神分析学会を支えてきてくださった先生方の講義を受けはじめた。

ご存知の通り、もうお会いできない先生も増えた。

毎週木曜日、休まず通い続けること、治療者にもっとも必要な訓練だ、と教わった。本当にそうだった。

小此木先生はとても厳しく感じる時もあったけど本当に楽しそうに精神分析について話された。

あれから20年が過ぎ、自分が自分の小さなオフィスを構え、フロイトを読む会を主催し、小此木先生の本を紹介したりしているとは。しぶとく居残る「つう」であれ、という北山修先生の笑顔も浮かぶ。北山先生はますますお元気だ、とたまたま今日非常勤先の上司と話した。

精神分析はビオンがいうとおり当事者二人による「思わしくない仕事」だということも実感している。絶望も希望も分かち難くそこにある。
ともにいることの難しさを、静かな喜びを、有限のなか果てなく続く時間に見出す。


決して簡単にはじめるものでもはじめられるものでもないこの特殊な営みを私が信じ続けられるはじまりにフロイトの書き物との出会いがあり、先生方との出会いがあり、患者さんたちや私を支えてくれるすべての人との出会いがあった。すべて偶然でも必然でもどっちでもいいけれど感謝したい。

NPOの夏

またnoteの転記。2020年6月から夏、秋とよく書いた。

これを書いたのはいつものメンバーでzoom句会をしたときだ。私は早い段階で有料プランに切り替えていたのですぐにそういう場を提供できてよかった。とはいえ、オンラインは手段で、私たちをつないだのは俳句だ。

こうしてストーブに当たりながら夏のキャンプの記事を読む。

しかも何年も前の、しかし何年も続けてきたイベントの記憶。私は随分若い頃からこのNPOで活動してきた。当時はキャンプファイヤーの熱量に圧倒されたりはしなかった。本当に若かった。

以下7月のnoteを転記。この記事にNPOの仲間たちがコメントをくれた。彼らとも長く活動を共にした。その後、それぞれに色々あった。テントという密室が今年は特に懐かしかった。

終便の出し桟橋に外寝人 花田喜佐子

兼題は外寝と火取虫。パッとキャンプが思い浮かんだのは日常でこういう景色がすでに失われているせいかもしれない。

以前、子育て支援のNPOの理事をしていた。地域の子供会や自閉症児親の会など様々な団体と連携してインクルシーブな場所づくり(今思うと目標が大きすぎてちょっと恥ずかしい)を目指して活動していた。私以外の理事はみんなその地域で育った仲間たちで、NPOの活動には彼らを小さな頃から知る親世代から彼ら自身の子供も含む世代まで本当にたくさんの方が協力してくれた。私もその地域にいくと車から名前を呼ばれたり、道で出会ってお話ししたり、今住んでいる東京の小さな町でも体験しない身近な人間関係がそこにはあった。

いつもなら8月のキャンプにむけて大忙しの時期だ。私は主に障害(主に自閉症)を持つ子どもたちが2泊3日のキャンプで安全に楽しく過ごせるように様々な準備をする担当だった。キャンプも後半になれば同じ班の子供たちがその子の障害の特徴を掴んできて(子供はそういうのが直感的で早い)上手に関わりあうので初日のような緊張感はなく、感心、安心したものだった。

夜は真っ暗になることを子供たちは意外と知らない(だから懐中電灯必携ということがピンときていない)、トイレで大きな火取虫に声をあげて出てきて、今度は数人で連れ立っていってみんなでキャーキャー言う(そして少し慣れる)。時折暗闇に響く声、テントから聞こえるヒソヒソ声。夜中見回りにいくとさらに声を潜める様子が伝わってくる。ああいう場所にいると自分が動物であることを思い出す。五感がいつもより研ぎ澄まされる。

ずいぶん長く毎夏の行事としてやってきたが、今年だったらできなかっただろう。

テントの中が暑くて外にベッドを置いて寝る人もいる。夜のキャンプ場は食糧を求めて野犬が現れたりもして怖いこともあるが、とても静かだ。大人たちも小さめの声で話す。普段はしないような話もする。ベタつく身体を濡らしたタオルで拭くと風をひんやりと感じる。

夏の季語「外寝」で一句作ろうとすると、キャンプかホームレスの人の姿を思い浮かべることはできるがそれ以外は難しい、と話し合った。最近の句会での話。それぞれの句をみんなで鑑賞し、そこから見えてくる景色を話し合う。冒頭の句は外寝にはこんな句もある、と仲間の一人が紹介してくれた一句だ。話の流れと読み方の間違いのせいでみんなが間違った方の景色を思い浮かべて大笑い。文字と音が生み出す景にはそんなこともあるから面白い。時代が変わればまた異なる景が見えるかもしれない。

「外寝」、ワイルドだけど自然の行為な気もする。東京にいるからなおさらかもしれないけど、道路にも公園にも様々な規制があって自然に腰をおろせる場所も減った。私のオフィスのそばにある緑豊かな新宿中央公園も工事中だ。古ぼけたベンチにみんな少しずつ離れて座り各々好きなことをする時間はいつまで守られるのだろう。公園のお隣にそびえたつ都庁では三密禁止だが、ここでは自然と守られてきたことだ。空間があれば自然とそうなる。

キャンプでは一日目の夜は子供も大人も遅くまで起きているが、二日目の夜はみんなぐっすり。火取虫にも恐々しながらも声を上げない。願わくば、ウィルスや自然災害とは別の形でこんな風に自然と共にいる時間をもちたい。俳句のようになんでもない景色を大切にしたい。

キャンプ三日目の朝のみんなは不思議とマイペースで良い感じ。句会のあとの私たちも良い感じだ。感覚を使い、こころを開き、言葉にしようと試みる。日常は気づかないうちにどんどん窮屈になっているのかもしれない。本当は適応などしないほうがいい場所もあるのかもしれない。

月曜日、東京の日常が始まった。

みんながマスクをつけた満員電車はちょっと異様。マスクの下で考えていることは多様に違いないけど。

外寝人生きてをるかといぶかりぬ  下村梅子

言葉とこころ

オフィスのウェブサイトを整理した。今年は(さっきから「昨年は」と書いてしまう。まだ今年終わってなかった)それまで持っていたブログにアクセスできなくなったのでnoteにダラダラ書き連ねていたが、運営の方で色々あるらしいので友人がかっこいいサイトを作っていたwordpressを使い始めた。でもテンプレートの使い方がわからないので(きちんと勉強すればいいのだろうけど)結局「ブランク」のテンプレート(?)にこうして書き連ねている。まぁ、私はとりあえず書く、ということをしたいだけなのでこれでよしとしよう。オフィスのサイトも今のままでよしとしよう。

その整理をするなかで、2020年8月のnoteを見つけた。なんとか冬になっても仕事してるよ、コロナの状況は変わらないけど、と夏の自分に言いたい。コロナがこうしてダラダラ書かせてるのかもしれないけどね。

と、私は書き始めるとキリがないので、転記。精神分析における言葉、私が最も関心を持っている世界についてそのとき思ったことを書いてみました。

2020年8月note

今、私を取り囲む本や書類の上や間や床やいろんなところに何かを書き散らかしたメモが散らかっている。自分の字なのにまるで読めないのだから残しておく意味などないのだけどなぜ捨てないのか。

いずれ読める日が来るとでも?そんなはずはない。ならいずれ読んでくれる誰かが現れるとでも?それはありうるかもしれない。周りの人に見せたら色々と解読してくれるに違いない。でも私がそれをしない。それにそれをメモする私はまたその読み方を忘れそうだ。

私にとってメモはその場限りの言葉なんだ、きっと。必要なのは内容じゃない。でも多分、だから大事で捨てられない。実際にはいずれ時がきたら捨てるのだけど。昔、日記や詩や文章を大量に書いたノートを全て捨てたのと同じように。一部はなぜか欲しいといってくれた友人にあげたけど。それにあれは読める字だったけど。

精神分析は主に言葉を使う。あえて「言語的」「非言語的」と分類する必要がないほど言葉をその人の全体として扱う。沈黙も息遣いも振る舞いも体験のすべてをあえていうなら前言語的な、赤ちゃんの泣き声のようなものとして扱う。なにがなんだかわからないのだけど、確実に私になにか伝えていて、どこか切迫感を帯びているまだカッコ付きの(言葉)。あるいは特になにが言いたいわけでもなさそうなんだけど、一緒にいるから出ているような、シャボン玉をただ吹いているような、春風に深呼吸するような(言葉)。

精神分析に限らず、どの治療法も万人向けではない。どれも誰にでも役に立つ部分を持ってはいるけれど実際に治療を受けるということは自分の生活の時間やお金といった現実的な側面を抜きには考えられない。だからその効果は簡単に比較できるはずもなく、その人が受けた治療を外側から簡単に価値づけすることは難しい。

特に精神分析ほど量的なものに馴染まないものはない。無意識を想定する精神分析はそこを無時間と考えるので、無×α=??なのだ。それでもそれまでの治療や何らかのきっかけからそこに意味や価値を見出した一定数の方たちは、そこにかけられる時間とお金を準備して頻度をあげることを希望する。そのとき精神分析は治療というより「精神分析」としか言いようのないものになるのだろう。「カウンセリングでは」というよりは「分析では」という表現を使うようになる。

言葉とこころの不確かな関係。私が読めないメモをなんとなくそばに置いておくのもそこに私のこころが残っている気がするからかもしれない。

言葉とこころの関係に悩み、そのどうしようもなさをどうにかしたい、という方は多い。どうにもならないことをどうにかしたい、というとき、それは原因探しや裁きや答え合わせを切望するこころとして解釈することもできるかもしれないが、不確かさや不快さに寛容でありたいという願いとして捉えることもできるだろう。

昔、とても嫌われて、あるいは嫌いになって、もしくは憎しみあって別れた人がいるとして、その人のことを語る言葉について考えてみる。それは時間と場所によって変化するだろう。外ではこう言ったけどここではこう言ってる、とか、あの時はこう思ったのに今はこう思う、どうしてだろう、など。こういうことは臨床場面でもしばしば語られる。

こんな風に、人のこころと言葉が一対一対応ではないことは誰もが知っていそうなのに、喧嘩をしたときに「ごめんね」を言わされて仲直りしたように見せかけたり思いこむようなことも私たちはしょっちゅうしている気もする。

自分のこころと言葉の不確かさ。精神分析はそことともにある。哲学者が心理士以上に精神分析を引用するのもそれが人間の全体を現すことをよく知っているからだろう。彼らもまた外からは不毛といわれても思索を止めることはしない。

私は今日もメモを書きつけるかもしれない。そしてまたそのままにして、そのうちますます読めなくなって、いずれどんな時に書かれたメモかも忘れるのかもしれない。それでもそのときそこで、あるいは今ここで私が考えていることは完全に消え去ることはないと思う。ここはこうして読める字に変換してくれるけど、たとえこのnoteをすべて消去したとしても同じことだ。痕跡を残し、またどこかでそれと出会う。その繰り返しをこれからもしていくのだろう。

暑くて移動が億劫だけどもう行かなくては。

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