フロイトと宗教ー『ある錯覚の未来』

2019年の年末、薬学部の「人間と文化」という講義にお招きいただき、精神分析とは何かというお話をしてきました。


講義後、精神分析と宗教の関係について多くの質問をいただき、フロイト の『ある錯覚の未来』に書かれたことはいまにも引き継がれる議論であると感じました。
この論文もいくつかの日本語訳で読むことができますが、ここではキノドスの『フロイトを読む』にまとめられた部分を引用しながら少し書いてみようと思います。

フロイトは自分のことを「無神論者のユダヤ人」と公言しており、宗教と精神分析の関係という問いに取り組み続けました。フロイト が1927年に書いた『ある錯覚の未来』(岩波版フロイト全集第20巻所収)がそれについての代表的な著作ですが、発刊されるやいなや論争が巻き起こったと言います(フロイトの場合この著作に限らず論争は起きやすいですが)。

日本は自然そのものに神様を見出したり、八百万の神というほどに多神教的、汎神論的であり、一神教とは遠い文化なので、宗教そのものについて考える機会はほとんどないかもしれません。
しかし多くの国では宗教が戦争の原因になるほどにそれは人間に対して大きな支配力を持っています。そしてフロイトはユダヤ人です。それゆえこの問題に生涯取り組む必要があり、宗教からの精神分析に対する問いかけに応答し続ける必要があったのかもしれません。

フロイトは、反ユダヤ主義が根強く浸透した文化においてユダヤ人の家庭に生まれ、カトリック信者である子守女に養育されました。また、彼が生まれたときに与えられた名前もユダヤ名であるシュロモ、キリスト教名であるジギスムント(のちのジグムント)の両方だったそうです。

しかし、フロイトがユダヤ教、あるいはキリスト教など特定の宗教の内側から精神分析を語ることは決してなく、牧師たちとの文通においても精神分析がいかに宗教とは異なるかを語りつづけました。ちなみに『ある錯覚の未来』において想像上の論敵とされているのはフロイト の友人でもあったオスカー・プフィスターというプロテスタントの牧師であると推測されます。

フロイトは科学としての精神分析に希望を持っており、それが宗教に還元されることに抵抗しつづけました。
だからといってフロイトが宗教家が精神分析家になることは認めないというようなことはなく、今でも国際精神分析協会は宗教の問題は会員の自由に任せています。
同時にフロイトの思想への敵意にもかかわらず、カトリック教会が精神分析を公式に禁止することもありませんでした。

フロイトは宗教の源は幼児の無力感と「よるべなさ」であり、宗教的な表象は人類の最も強い欲望の現実化であり、錯覚であると考えました。

精神分析はフロイト のように非宗教的な精神分析家たちによって生み出されました。精神分析が宗教の問題を個々人に任せるのは当然としても、精神分析について考えるとき、この事実を踏まえることはとても重要なのではないかと私は思います。

また日本の宗教、日本の精神分析という文化に身を置く私がこの問題について考えるとき、日本の精神分析家である土居健郎の著作が多くの示唆を与えてくれます。
日本の精神分析を代表する概念である「甘え」を創造した土居は「宗教とイデオロギーの間」(『精神療法と精神分析』所収)という論考の中で、精神分析において「価値判断」の問題を棚上げできるかどうかについて論じています。

これについてはまた別の機会に書くことができればと思います。

投稿者: おかもとあみ

臨床心理士/日本精神分析協会候補生の岡本亜美と申します。 https://aminooffice.wordpress.com/  https://www.amipa-office.com/index.html

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