【臨床家向け】日本精神分析協会 第8回 LECTURE DAY

日本精神分析協会 第8回 LECTUREDAY 

『ネガティヴ・ケイパビリティを考えるーその理論と応用』

日 時:2022年3月20日(日) 時 間:13:00~17:00

場 所:オンライン(Zoom)

参 加 費:4,000 円

講義 1.松木邦裕

講義 2.鈴木智美

講義 3.権成鉉

指定討論:吾妻壮 

申込期限:2022 年 3月14日(月)

https://www.jpas.jp/ja/topics/177/?fbclid=IwAR22gyPVTbNDTI0M41W8fhjdTAidl_-UU_KLGHjdnbmSGsyWDcnQnwRuy1M

【報告】短期力動療法入門の会

(この記事はトップページから転記したものです。トップページの記事はしばらくしたら削除いたします。)

GWは特別な遊びをしました。オンラインとはいえ無事に開催できて嬉しかったです。

今回は、臨床経験年数(5〜20年以上)、領域(教育、医療、看護、福祉など)、技法(力動、CBT、ロジャース、EMDR、不特定など)も様々な20名ほどの臨床家のみなさんと「短期力動療法」について学び合いました。男女比も4:5とあまり差がなく、偶然とはいえバランスのよいグループでの開催となりました。

このゆとりなき時代のニーズにあっていそうな「短期力動療法」、私たちにとってはいまだ新しい技法ですが、今回はこれをいち早く紹介してくださった精神分析家の妙木浩之先生にご講義いただきました。

日本でもAEDP(Accelerated Experiential Dynamic Psychotherapy:加速化体験力動療法)のようにトレーニングへのアクセスがしやすい技法もありますのでご興味のある方はぜひウェブサイトをチェックしてみてください。創始者のダイアナ・フォーシャの『人を育む愛着と感情の力』の監訳者の先生方(岩壁茂・花川ゆう子・福島哲夫・沢宮容子・妙木浩之, 2017)の研究に当たってみるのも近道かと思います。

今回はSTDP(短期力動療法)の基盤である精神分析をメインのお仕事としながら、EMDRなど他の心理療法の技法も習得されている精神分析家の妙木浩之先生をお迎えしました。

実はフロイトから始まっていたその歴史(ex.作曲家グスタフ・マーラーの治療)、技法の特徴、治療の実際まで、豊富な資料とビデオを用いてご講義いただいたおかげで、知的な理解にとどまっていた私たちの短期力動療法イメージはかなり具体的、立体的になったような気がします。マランの二つの三角形を作動させることが大事なんですね。ちなみに妙木先生はレヴェンソン系列の短期力動療法(STDP)を長く実践しているそうです。私もトレーニングするならレヴェンソン系がいいと思いました。

講義の前日にはウォーミングアップを兼ねて、CBTと精神分析というお互い名前だけは知っている(内容も知ってはいるけど実践として知らない)というような間柄(=領域)の二人でこの「短期力動療法入門」を素材に語り合ってみました。お迎えしたのは、京都CBTセンター・京都大学大学院医学系研究科 社会健康医学系専攻 健康増進・行動学分野 助教の坂田昌嗣さんです。

CBTセラピストの坂田さんと精神分析家候補生の私は、私が坂田さんを一方的に知っている間柄(セミナー受講生として)だったのですが、私がTwitterで紹介した『短期力動療法入門』に坂田さんが興味を持ってくださり、坂田さんの読み方に興味を持った私が今回のイベントにお付き合いいただけないかとお願いしたという経緯だった気がします。

ちなみに『短期力動療法入門』についてはあまりまとまっていませんがこちらこちらも更新中です。

 坂田さんとは『短期力動療法入門』を読むということで、坂田さんがCBTセラピストとしてこの本から感じたこと、考えたことを教えていただきました。また前もってお渡しした質問にも対話的に答えてくださいました。穏やかながら聞き手の問題意識を掻き立てる明快な指摘に聞き手の私たちも触発され、どの方も日々の臨床から生じた迷いや罪責感などを実感のこもった語り口でお話しくださいました。1日目のこの濃密な共有があったからこそ2日目の妙木先生の講義に対しても「自分の臨床に取り入れていくとしたら」というポジティブな発言が多かったのかもしれません。

 ちなみにテキストは以下の二冊です。

ソロモン他 妙木・飯島(監訳)(2014) 短期力動療法入門.金剛出版

妙木 浩之(2010) 初回面接入門―心理力動フォーミュレーション.岩崎学術出版社


短期力動療法の強みは

「精神分析と同じ深さのプロセスをより促進的におこすことで、同じ効果をより早く患者にもたらす」

ことです。(『心理療法の交差点2』新曜社)

精神分析を提供している心理臨床家は多くないですが、精神分析の知見を取り入れた精神分析的(力動的)な心理療法を提供している方は多くおられます。

精神分析と精神分析的心理療法の違いについてはこちらもご参考までに。

歴史はあるのに技法として選択されるにはとてもマイナーな精神分析、ですが、その知見を有効だと感じ、取り入れて使用する方が多いということはこの技法の潜在的な可能性を示していると私は考えています。

私個人は「精神分析」ではなく「力動的心理療法」を提供する場合、患者やクライエントのニードにミニマムに、シンプルに応えていきたいと考えていて、というより、それが時代のニーズのように感じています。そしてそのときに活用できるのがこの短期力動療法Short-term therapyではないかという感覚は以前からありました。

ただ、これはこれで相当のトレーニングが必要なので、今回他職種や他技法の皆さんと対話し、妙木先生のお話もうかがえたことはその導入について具体的なイメージを描くのに大変示唆的でした。

限られた期間で効果的に無意識を扱う短期力動療法は、精神分析と他のインテンシブな心理療法(認知行動療法など)、また精神分析とエビデンスに基づく実践(EBP)との交差点とも言えます。今回はより様々な臨床家が立ち止まる交差点として機能してくれました。

ところで、私はひとりでオフィスで仕事をしていますが、私にとって開業臨床は精神分析という文化の一部にあって、私のオフィスは同じ路線にあるひとつの駅みたいなものだと思っています。だから「ひとり」と思ってはいませんし、こんな小さな駅で列車がすれ違ったり、待ち合わせたりするのってなんだかいいな、と思っています。特に気ままな旅もままらない今は。今回はCBTとEBPに限らず、特にアプローチを定めていない皆さんと待ち合わせをして一緒に遊ぶように学ぶことができてとても楽しかったです。

精神分析という遊び、そこにはいつも他者が必要で、しかも多様な他者が必要で、今回のような小さなグループでそういう方々と出会えたことはとても幸運でした。

Twitter @amisoffice1 でも準備、当日、終了後に得た学びなどをツイートしております。ご関心のある方はそちらもご覧ください。あまり関係ないことも呟いていますが良い体験を少しでもお裾分けできればと思います。

>ご参加の皆様、坂田さん、妙木先生、どうもありがとうございました。これからも様々な形で対話していけたら嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。

「短期力動療法入門」打ち合わせ②

週末はGWに行う「短期力動療法入門」の会の打ち合わせを坂田昌嗣さん(京都CBTセンター・京都大学大学院医学系研究科社会健康医学系専攻健康増進・行動学分野 助教)としました。

と書いてから1ヶ月が経ってしまいました。新年度もコロナ禍で始まりましたがいかがお過ごしでしょうか。新しい環境で一息つく間さえなかったという方もおられることでしょう。坂田さんも新しい環境で大変お忙しい中この会のために準備をしてくださっているようです。すでに大切な問いもいただきました。

当日は限られた時間になりますが私たちの対話をきっかけに参加者のみなさんが少し立ち止まってあれこれ考えるような時間になればいいなと思っています。

「時間が有限であることは、人が自分の人生が有限だということに気がつく機会である」と二日目にご講義くださる妙木浩之先生(日本精神分析協会 精神分析家)も書かれています。ほんとそうだなあと思います。

引用は『心理療法の交差点2』(p13 ③時間=分離=自立=成長)からです。

企画については似たようなことばかり書いていますが、一応こちらをご参考までに。こちらも。

すでに書きましたが今回の『短期力動療法入門』の会はその技法よりもその成り立ちと工夫を学ぶことでそれぞれの臨床を振り返る時間になると思います。妙木浩之先生もその部分を中心にお話ししてくださると思います。

日本の心理臨床は特定の技法というより口頭伝承的に発展してきた側面が大きいですし、私たちの学び方とそれはしっくりくる面もあるのでしょう。本来、この技法もどの技法も十分な訓練を必要とします。今回は短期力動療法を素材に、精神分析家の北山修先生が『共視論』において書かれたような横並びの関係で同じものを眺め、あれこれ言葉を交わしましょう。できるだけ皆さんとの対話の時間をとれるように時間設定をしておりますのでぜひ。

坂田さんとの打ち合わせでは「打ち合わせ①」にも書いたアウトカム研究についても色々と教えていただきました。また、短期力動療法における感情の取扱い方についてもあれこれ話し合いました。

これはおそらく私たちがインテンシブにトレーニングを積んでいるCBT(坂田さん)や精神分析(私)の違いとも関係していることなのですが、精神分析を基盤に発展してきた短期力動療法は感情、衝動に対してとても細やかです。それはそこに集中的に注意を払っているからともいえます。精神分析はもうちょっと全体にぼやっと注意を開放して漂わせるなかでまとまりがみえてきたらそれが解釈の形をとったりするわけですが、短期力動療法は防衛(=抵抗)の表現に敏感に反応し、クライエントが感じる困難と治療者が感じるクライエントの問題とのすり合わせを行っていきます。またそのプロセスにおいて「本物の感情」にとどまれるように支持的、共感的な態度を維持し、ボディスキャンを用いてクライエントの身体的な変化を言語化したりもします。自分で自分の感覚に気づく、自分で自分をマネージする、そのために二人で自分の状態を観察する、だから対面で、だからビデオで細やかに、なるほど、という感じがします。

坂田さんも私もお互いCBTや精神分析という専門性を掲げて開業で臨床しているせいか、外側の理論にも異質なもの、未知なものととして対立的、あるいは二分法的に関わっていくのではなく、自分の臨床とのすり合わせを行いながら違和感や共感をゆっくり咀嚼してそれを言葉で伝えていく感じみたいで(臨床はその相手との現実で理論ではないからでしょう)、打ち合わせでも穏やかな気持ちであれこれ考えられてとても楽しかったです。そして坂田さんはさすがに教えるのがとてもお上手で、私は個別学習塾に通う生徒のような気持ちも味わうことができました。

今回はzoomなので坂田さんと私も自分をモニタリングしながらお話することになるのですね。私はオンラインでもあまり画面を見たくない方なのでちょっとあれですが、みなさんのご協力のもと、私がすでに味わってしまった贅沢をみなさんにもお裾分けできるよう努力いたします。打ち合わせの時のようにのんびりやれたらと思うのでご参加のみなさんもゆるりと画面前にお越しください。そして楽しかったことは伝えたくなるはずなのでそのうちあちらこちらで書くと思います。ご関心のある方はお時間がある時にのぞいてみてください。

今日の東京は暑くなるようです。そういえば今回も北海道から九州までさまざまな地域の皆さんがご参加くださいます。オンラインのメリットですね。どうぞ良い一日をお過ごしください。

フロイトと宗教ー『ある錯覚の未来』

2019年の年末、薬学部の「人間と文化」という講義にお招きいただき、精神分析とは何かというお話をしてきました。


講義後、精神分析と宗教の関係について多くの質問をいただき、フロイト の『ある錯覚の未来』に書かれたことはいまにも引き継がれる議論であると感じました。
この論文もいくつかの日本語訳で読むことができますが、ここではキノドスの『フロイトを読む』にまとめられた部分を引用しながら少し書いてみようと思います。

フロイトは自分のことを「無神論者のユダヤ人」と公言しており、宗教と精神分析の関係という問いに取り組み続けました。フロイト が1927年に書いた『ある錯覚の未来』(岩波版フロイト全集第20巻所収)がそれについての代表的な著作ですが、発刊されるやいなや論争が巻き起こったと言います(フロイトの場合この著作に限らず論争は起きやすいですが)。

日本は自然そのものに神様を見出したり、八百万の神というほどに多神教的、汎神論的であり、一神教とは遠い文化なので、宗教そのものについて考える機会はほとんどないかもしれません。
しかし多くの国では宗教が戦争の原因になるほどにそれは人間に対して大きな支配力を持っています。そしてフロイトはユダヤ人です。それゆえこの問題に生涯取り組む必要があり、宗教からの精神分析に対する問いかけに応答し続ける必要があったのかもしれません。

フロイトは、反ユダヤ主義が根強く浸透した文化においてユダヤ人の家庭に生まれ、カトリック信者である子守女に養育されました。また、彼が生まれたときに与えられた名前もユダヤ名であるシュロモ、キリスト教名であるジギスムント(のちのジグムント)の両方だったそうです。

しかし、フロイトがユダヤ教、あるいはキリスト教など特定の宗教の内側から精神分析を語ることは決してなく、牧師たちとの文通においても精神分析がいかに宗教とは異なるかを語りつづけました。ちなみに『ある錯覚の未来』において想像上の論敵とされているのはフロイト の友人でもあったオスカー・プフィスターというプロテスタントの牧師であると推測されます。

フロイトは科学としての精神分析に希望を持っており、それが宗教に還元されることに抵抗しつづけました。
だからといってフロイトが宗教家が精神分析家になることは認めないというようなことはなく、今でも国際精神分析協会は宗教の問題は会員の自由に任せています。
同時にフロイトの思想への敵意にもかかわらず、カトリック教会が精神分析を公式に禁止することもありませんでした。

フロイトは宗教の源は幼児の無力感と「よるべなさ」であり、宗教的な表象は人類の最も強い欲望の現実化であり、錯覚であると考えました。

精神分析はフロイト のように非宗教的な精神分析家たちによって生み出されました。精神分析が宗教の問題を個々人に任せるのは当然としても、精神分析について考えるとき、この事実を踏まえることはとても重要なのではないかと私は思います。

また日本の宗教、日本の精神分析という文化に身を置く私がこの問題について考えるとき、日本の精神分析家である土居健郎の著作が多くの示唆を与えてくれます。
日本の精神分析を代表する概念である「甘え」を創造した土居は「宗教とイデオロギーの間」(『精神療法と精神分析』所収)という論考の中で、精神分析において「価値判断」の問題を棚上げできるかどうかについて論じています。

これについてはまた別の機会に書くことができればと思います。

短期力動療法と精神分析

今週末は『短期力動療法入門』から学ぶ会を催すので、精神分析との違いについてメモ的に書いてみました。これまで書いてきたものからの抜粋でもあります。

当日のテキストは
・ソロモン他『短期力動療法入門』妙木浩之、飯島典子監訳(金剛出版,2014)
・妙木 浩之(2010) 初回面接入門―心理力動フォーミュレーション.岩崎学術出版社
です。

『短期力動療法入門』は妙木浩之先生主催の短期力動療法研究会のメンバーで訳した本です。
原書名はShort Term Therapy for Long Term Changeで「力動」という単語は入っていません。

精神分析自体、日本でメジャーになったことがないので「まだあるんだ」と言われて説明させてもらうことなどもあるのですが、それが長期間を必要とするというイメージはみなさんなんとなくお持ちかと思います。また、そうなるとより使用しやすいものをということで短期化の動きが出てくるのもそれもそうかなという感じだと思います。そこで、長期の精神分析と同等の効果を短期、あるいは時間制限short-term,brief,time-limitedでもたらすために開発された技法に関する本がこれです。

この本を前もってざっとでも読んでおいていただくことを参加者の皆さんにはお願いしているので、その予習、復習にも少しお役に立てればとTwitterアカウントami’s officeもとりました。よろしければ覗いてみてください。それ以外のことも書いていますが。

短期力動療法は精神分析を基盤としています。しかし、その展開のプロセスにおいて、それは明らかに精神分析とは異なるものになりました。

精神分析はお互いのこころをフルに使いあうものなのでお互いに相当のエネルギーがいります。「こころを使う」というのは単に自分の気持ちに意識的になるというものではありません。精神分析でいうそれは、タブーとされているような人間の生の部分にフルに触れていくことであり、生活を維持しながらも自分の無意識に翻弄される自由を持つことと関係しています。

また、精神分析は異常と正常の間、意識と無意識の間でギリギリの体験を扱っています。こころが持つ破壊性と潜在性に対して精神分析が払う注意は独特のものです。

だからこそ精神分析の治療者になるのであれば訓練が必須で、まずは自分がこころの動きに十分にひたされ「こころを使える」範囲を広げておく必要があります。それは患者さんが体験することだからです。患者さんにとっても治療者にとってもやってみなくてはわからないというのはどの治療も同じですが、精神分析を受けることはかなり特殊な体験となると思います。

さて、精神分析がパーソナリティを含めたその人の全体性および潜在性に注意を漂わせつつ面接室内外で生じる様々な現象を細やかに捉えていくのに対し、短期力動療法はクライエント自身が問題と思っているところと治療者が困難な部分と考えたところのすり合わせを行いながら問題を焦点化していきます。

また、設定は対面で、自由連想法は使いません。夢解釈の技法も使いません。
フロイトの『フロイト技法論集』を並べて検討してみるとその技法が全く異なることがわかると思います。


主な技法は「抵抗解除」と「体験促進」です。ISTDPのセミナーなどを見てみると、Davanlooの抵抗に関するメタサイコロジーやマランが考案した三角形、head-on-collision with resistance(抵抗との正面衝突)の技法を学ぶことがその中心になっているようです。

『短期力動療法入門』第2章Davanlooによるインテンシヴな短期力動心理療法がそれにあたります。

たとえば2021年6月にAllan Abbassが行うセミナーの案内を見てみると
そこで学べる内容は以下です。
Davanloo’s Metapsychology of Resistance
Assessing and working with barriers to engagement
Determining and working with the front of the resistance
Psychodiagnostic assessment to determine degree and type of resistance
Nature and timing of interventions, including pressure, challenge, and head-on-collision with resistance
Partial and Major Unlocking of the Unconscious
Working with the mobilized unconscious


割とシンプルだと思います。
今回のテキスト『短期力動療法入門』の症例をお読みいただくとわかるように、
短期力動療法(特にISTDP)は、防衛解除に焦点化しアクティブで促進的に面接を進めていく技法です。
とてもシンプルでvividな方法ですが戦略的なので、言葉の使用についてもある種の型を自分に十分になじませておくことが必要そうです。

言葉の使用については妙木浩之先生、北山修先生の本をお勧めします。
私が一番お勧めなのは妙木先生の『精神分析における言葉の活用』という本です。北山先生の『意味としての心 「私」の精神分析用語辞典』も心を表す言葉について感覚を豊かにしておきたい方にはぜひお勧めしたい本です。

精神分析の側から考えると、このゆとりなき時代、精神分析という治療文化が廃れないためには短期力動療法のパイオニア(フロイトを含むが)たちがそうだったように、精神分析の歴史に根をはりつつ、より広く社会に答えるべく私たちにできることは何か、ということを模索し続けることが必要なのでしょう。

今回はCBTの専門家が対話に応じてくれました。そうすることでそれぞれが自分の思考を超えて考えていけるような時間になればいいな、と思います。

参照:
IEDTA:International Experiential Dynamic Therapy Association
この本の著者たちも紹介されています。
各技法はこちら。STDPもこのタイプのひとつです。

第8章今後の展望(David Malan)で紹介されている本。
タヴィストッククリニック:BalintとMalan
A Study of Brief Psychotherapy
Malan, D. H. 1963
マランを後押ししたバリントのことが書かれています。
バリントは医療と心理療法をつなぐ重要な役割を果たした精神分析家です。

『バリント入門』より引用
「一九五五年には、バリントは短期焦点心理療法を発展させるために、タヴィストック・クリニックとキャッセル病院出身の分析家たちとともに短期焦点心理療法ワークショップを立ち上げた。」
「…アセスメントは、最初にアセスメントをおこなった二人の担当者の報告書によって進められる。その報告書はワークショップで議論され、治療計画が策定される。このことを通じて、差し迫っているように思われ、それゆえに短期の作業に手早く導入することができそうな葛藤の焦点を配置したのだった。」
「患者の歩調にあわせて情動的な構造がゆっくりと展開していくことが許される分析とは対照的に、短期療法の目標は、グループのメンバーがよく言うように、「素早く入り込み、深いレベルで作業し、すぐに切り上げること」であった。」
「そのためには、開始の時点から、はっきりと意識された行動計画を組み立てる必要があった。治療者は、無意識の構造を見抜くことができるように、分析に相当精通していることが要求された。」←短期力動療法では初回重要は殊更重要です。

この本も歴史を外観したり、マランのインタビューが読めたりして興味深いです。

Theory and Practice of Experiential Dynamic Psychotherapy
ByFerruccio Osimo, Mark J. Stein

「短期力動療法入門」打ち合わせ①

週末はGWに行う『短期力動療法入門』の打ち合わせを坂田昌嗣さん(京都CBTセンター・京都大学大学院医学系研究科社会健康医学系専攻健康増進・行動学分野 助教)としました。

本については私のオフィスのサイトにも書きました。これは書き足しているうちに個人的な学習メモのようになってしまったので見にくいと思いますが・・いずれ修正します。すいません。

今回の打ち合わせは、坂田さんが以前勤めていらした精神科病院でのアウトカム研究の試みの話から「そういえばこの章のこのデータは効果量が高く出過ぎているのでは」という話になり、「心理療法の臨床試験でも、ネガティブデータは出版されない傾向にあるので、これらの効果量は少し差っ引いてみる必要がある(坂田さんのTwitterから)」と現状のアウトカムあるあるを教えていただきました。

すでに坂田さんがTweetしてくれていますがこういう例もあるそうです。「前々から注視しているけれど、UMINに登録のリワークマニュアルのRCT、2018年12月にフォローアップが終了後、なかなか出版されない。もう少しで世に出るんだろうか。これだけリワークが国内で広がってた以上、ネガでもポジでも現場への影響は大きいから、ぜひ公開してほしい。」

本当にそうですよね。私たちは「失敗から学ぶ」しかないところばかりなんだし、せっかく時間と労力をかけた研究なのだからぜひ公開していただきたいです。ネガティブなデータこそ大事だよと後押ししてくれる環境、思い切らなくても普通に結果を報告できる環境、もし今それがないならば今後できるといいなと思います。

以前、別のブログに書きましたが、精神分析はこれらの研究になかなかのせにくい構造を持っていると思います。ですが力動系アプローチであれば日本でも実践する人が多いと思うので、CBTのように「誰がやっても同じような効果がある」(ので安心してご利用ください)というのを臨床試験で出しやすいように思うのですが、海外と比べるとそういう研究って少なくないですか、基盤がぼんやりしているのかな、いう話もしました。

UMIN(ユーミン♪)やClinicalTrials.govのサイトも教えていただきました。

その繋がりでアトゥール・ガワンデ(Atul Gawande)の『医師は最善を尽くしているか 医療現場の常識を変えた11のエピソード』 というみすず書房から出ている本のことも教えていただきました。いまだコロナ禍にあるこの状況ではなおさら読むべき本なのかもしれない、とお話を伺いながら思いました。

これがひとつめのトピック。

ふたつめは「感情」に焦点をあてることについて。これはまた後日書きます(早くも電池切れです)。

今週は新年度が始まりますね。それぞれのペースでお身体に気をつけてお過ごしください。

『フロイト症例論集2』を読み終えました。

www.facebook.com/438749860050635/posts/818672185391732/

『フロイト最後の日記 1929〜1939』日本教文社もお勧めしてみなさんオーってなっていました。フロイトを読むといろんなことが身近になってその歴史も知りたくなるということでジョージ・マカーリの『心の革命』のお話も。

『I.R.S.ジャック・ラカン研究』

書肆心水さんから『I.R.S.ジャック・ラカン研究』No.17が届いた。「特集:今日のエディプス」が読みたくて注文しておいたのだ。

ラカンを読むのは難しいが、ルディネスコの『ジャック・ラカン伝』は面白いし、現代思想でも頻繁に引用されるので、数を読んでいるとなんとなく身近にはなれる。

臨床でも十川幸司、立木康介といったラカン派(十川先生は今もラカン派というのか不明)書き手が幅広い臨床家の橋渡しをする書物を書いている。立木康介編著の『精神分析の名著 フロイトから土居健郎まで』(中公新書)は必携だし、『フロイディアン・ステップ』や『女は不死である』などにはすでに触れた。

ラカン派というのは精神分析の中でも特殊な位置づけであり、このNo.17の原和之の論考の註では「ラカン派の外」のものとして藤山直樹『集中講義・精神分析(上)』(ちなみにこれも必携)が引用されている。

この特集で読みたかったのは「エディプスと女性的なるもの」のワークショップだが、パラパラしている限りどれも面白そうだ。

大学のハラスメント相談をラカンのディスクール論を応用して「被害者のディスクール」として論じる赤坂和哉氏の論考も興味深い。当然そこには「加害者のディスクール」もあるが、それが今後の加害者への具体的な対応策を見据えたうえで論じられているのは著者が大学人だからだろうし、意義深いと思う。

短い論考が多いこのような雑誌は隙間時間にぴったりなので楽しみたいと思う。

短期力動療法

GWに短期力動療法を学ぶ機会をもうけました。昨日は私がインタビューをさせていただく坂田昌嗣さんと初打ち合わせをしました。

お互いに単科精神病院での多様なあり方を体験しているせいか「枠」と「焦点化」に対する考え方は似ているように思いました。一方、「抑圧」「葛藤」「抵抗」といった精神分析がよく使う概念の使い方(そもそも使わないとか)は異なるようでした。

同業者の方とそれぞれがトレーニングを積んでいる技法の類似点や差異について話し合うと自分のしていることが相対化されて明確になりますし、なにより新鮮な気づきがあって楽しいですね。

坂田さんは認知行動療法だけがご専門ではありませんが、今回は認知行動療法について色々教えていただきました。

患者さんに身近なのは言葉上も実践でも「認知行動療法」のほうでしょう。私のところにこられる方も「認知行動療法を受けたことがある」あるいは「自分でやってみた」という方は多くいらっしゃいます。「自分でできる」ほどやっていることが明確で、伝わる言葉を持っているのが認知行動療法の素敵なところだと思います。

一方、私が非常勤で働くクリニックでは、専門をHPなどに掲載していないというか、特定の技法でお会いすることを前提にしていないので、「認知行動療法を受けたい」というご希望の方にはお会いしたうえでそれが「私の専門ではないのだけど」とお話を伺っていくうちに、大抵の方は「このままやってみたい」ということになります。

それは、認知行動療法家のみなさんやすでに体験したことのある方はそれが何であるかわかっていますが、まだ受けたこともない方はなんとなくのイメージをお持ちのままこられるからなんですね。

なので私は「自分はそれではない」という前置きをしたうえで自分ができそうなことを提示しながら困っておられることを明確にしていくお手伝いをしています。

臨床心理士の技術は特定の技法を使うこととは異なり全般的なものなので、アセスメントとマネジメントというどの技法にも共通していることをまずは行うということですね。

短期力動療法のように扱うべき事柄を焦点化して患者あるいはクライエントの回復に寄与していくために最重要である「定式化(フォーミュレーション)」はいかにも「技法」という感じがします。なので訓練が必要です。

短期力動療法の基盤である精神分析も今やマイナーですが、やはり特定の技法ですので厳しい訓練が必要です。

それでも「精神分析」という言葉を掲げている私のオフィスでさえそれを求めてくる方は少ないわけですが(これも大変興味深いことだと思います)、坂田さんのような話し相手を得ると、私が毎日試行錯誤しながらひたすら繰り返していることを伝わる言葉に置き換えることができ、とてもありがたいなと思いました。

精神分析という文化において、訓練で積み重ねていることを丁寧に実践につなげていくことを励まされた感じがします。

他のページですでに紹介している『短期力動療法入門』(金剛出版)が今回の企画のテキストです。妙木浩之先生の『初回面接入門 心理力動フォーミュレーション』(岩崎学術出版社)も合わせて読んでおいていただきたいと参加者のみなさんにはお伝えしています。

どちらも決して「入門書」とは呼べませんが、フロイトを読まないで精神分析を語るのが難しいのと同様に、この技法を使うのであれば読む必要のある本だと思います。

こころの専門家が出会い、語り合うことで援助を求めてこられるその方がその方らしくあるためのお手伝いをより効果的にできるように願って緩やかにつながっていくことを大切にしていきたいです。

『パーソナル精神分析事典』

中島隆博先生(直接教えていただいたことはないが私は「先生」と思って本を読んでいる)は、「パーソナルなものは、所有や消費とは異なり、他者とともに形成される自らの経験とその変容からなる」とハーバー・ビジネス・オンラインのインタビューで述べておられた。他のところでも「パーソナル」の意味については言及されている。

『パーソナル精神分析事典』は松木邦裕版「自己を語る」ともいえるかもしれない。

記事はこちら↓

『没後70年 吉田博展』はじまる。

「おかもとあみのブログ」に記事を書きました。

参照、引用した本です。

西見奈子『いかにして日本の精神分析は始まったか

西さんのこの本については以前、オフィスのサイトにもちょっと書いた。

フロイト最後の日記』日本教文社

北山修編著『フロイトと日本人 往復書簡と精神分析への抵抗』

精神分析の本(藤山直樹『集中講義・精神分析』など)

2020年8月15日に書いた記事を転記。5ヶ月前の土曜日、私はビオンのセミナーを読んでいたのか。セミナーを読む、と書いてみてなんか変だなと思ったけど、もう会えないのだから読むしかない。一緒に現場にいたかったな。ここでは会いに行ける分析家の本のことを書いてみた。以下、転記。

>精神分析における大きな流れはフロイト、クライン、ウィニコット、ビオン、ラカンに代表されるだろう。サリヴァンやコフートもそうかもしれない。

今はビオンのセミナーを読んでいる。セミナー記録を読むときはそれが聴衆に向けた話し言葉であることに注意しないと学びにくいかもしれない。日本の精神分析家の福本修先生がビオンの『タヴィストック・セミナー』のあとがきで、セミナーの一部をネット上で見られることに言及して百聞は一見に如かずと書いている。そして「(笑)や(嘆声)(騒然)などと的確に加えられれば、更に分かりやすくなったかもしれない。しかし文字情報のみからそれを読み取るのは不可能」であるため「ビオンが真顔で極端なことを言っている箇所では、冗談が含まれている可能性を考えていただきたい」と書いている。文字からはビオンが「真顔」かどうかすらわからないけど。

「冗談が含まれている可能性」はとても大事だ。この前ここで書いた『ピグル』の翻訳も治療セッションの記録なので翻訳がとても難しかった。そしてこれも前に書いたけど言葉とこころの不確かな関係は形にならない話し言葉にこそ現れるので文字にするのは難しい。

その点、まだ生きている(つまり会おうと思えば会える)日本の精神分析家の書いたものは雰囲気を捉えやすいので面白い。今は動画だって残せる。が、実際に会わなくても、動画を見なくてもその語り口が生き生きと伝わってくる講義本は存在する。代表的なものが日本の精神分析家の藤山直樹先生の『集中講義・精神分析』(岩崎学術出版社)の上下巻だろう。

日本は精神分析家が少ないのでその全ての講義を比較することも可能かもしれない。

北山修先生のことは多くの人が知っているだろう。彼もまた日本の精神分析家だが、歌手や作詞家としての北山修しか知らない人の方が多いかもしれない。大好きだった「あの素晴らしい愛をもう一度」の作者である北山修が、セミナーなどで指導してくれる北山先生であることは私もずっと繋がっていなかった。彼の本はどうだろう。私には読みにくい。なぜなら言葉の厚みがすごいから。圧倒されてしまう。でも話をきくとわかる。とても面白い。歌い手でもある著者は語りの名人でもある。本だとわからないまま置かれていた言葉たちが呼吸しはじめる。北山修の場合、さすがにメディアの人でもあるのでその語り口は探せばいくらでもきける。もちろん歌声も。

さて、先に挙げた藤山先生の講義本は突出している。語り口を知らなくても想像ができるほど字がものを言ってる稀有な講義録だ。彼が脚本を書く人で、演出家であったことも大きく影響しているのだろう。私は音楽も演劇も好きだが、音楽が圧倒的にその歌い手に目を向けさせるのに対して演劇はそれが演じられている空間全体にいつの間にか自分がとりこまれる体験をさせられる。それをどう感じるかはまた別の話で、その演劇の力を知る著者のこの本に対しても好き嫌いは分かれるだろう。もし、静かな語り口を好む人がこの本のテンションにおされてしまって途中で読むのをやめてしまうとしたらそれはそれでもったいない。精神分析の歴史とエッセンスをこれだけコンパクトに明快にまとめた本はほかにないだろうから。特にフロイトの仕事について書かれている上巻は必携。

でももしそういう場合は、同じ著者の『精神分析という営み 生きた空間を求めて』藤山直樹(岩崎学術出版社)を読まれるといいかもしれない。同じ著者とは思えない語りがここには登場する。これはその後『続・精神分析という営み』『精神分析という語らい』と続く第一冊目だが、もしこの中から一冊だけ選ぶとしたら断然これだと思う。誰もがそういうと思うがどうだろう。いずれにしても教育者としての語りと精神分析家としての語りとはこれほどまでに異なるとわかるだろう。

今こうして色々書いてはいるが、これらはあくまで精神分析家個人の公に向けた語り口の話であって、精神分析セッションでその分析家がどう語るかはその患者しか知らない、ということも付け加えた方がいいかもしれない。同じ分析家であっても患者によって、ときにはセッションごとに語り口は変わる。変わってしまう。あるいは変わったように感じてしまう。転移とはそういうものだ。精神分析における語りはその場の二人によって作られる。当然講義とは違う。書き言葉にできるのはほんの一部だ。

精神分析で起きる出来事を静かな語りの文字にすることに成功している本といえば、同じく日本の精神分析家の松木邦裕先生の『不在論』(創元社)がある。この本は精神分析が明らかにする根源的不安に近づく患者と治療者のこころの動きをフロイトが作り出した大きな川のような思索に乗せる。そしてすでにそこでの微細な震えや激しい揺れを体験したことのある著者が、患者のそれを静かに見守り、時に言葉にしながら共にいる。その様子が大人の語り口で文字にされている。なぜ大人かといえば、著者はこの二人がいずれ別れること、いやこの二人に限らず、私たちはみないずれひとりになるという現実に対する深いもの想いがあり、自らを律したような静けさを保っているから。

著者の息遣いを探しながら、感じながら本を読むことは楽しい。でも精神分析で言えばこれもすでに書いたことだがそれは「受ける」ものであって「読む」ものではないだろう。

幼い日に本で読んだ大切な人との別れ、異質なものに対する差別、自然の大きさ、私たちは体験することではじめてそれがどんなものかを知る。読むことと体験することは入れ子になっている。本を開いたら草花がニョキニョキと生えて、いつの間にか自分がそこに立っていた、そんな本があるのはそういうわけなんだろう。

ちなみにカレーが美味しい店は珈琲も美味しいという。逆も然り。神保町の喫茶店でカレーと珈琲と本で過ごす土曜日もいいかもしれない。

インパクト

昨年8月18に日にnoteに書いた記事です。半袖だったのでしょうねえ。早く暖かくならないかな。

noteの記事をもうひとつのブログに少しずつ移行していたのですが、ただ移すだけの行為も労力が要りますね。ロボットになった気分でサクサクやれればいいのだけど、設定の確認をしたり、記事読み直しちゃったりするのが人間というものでしょうか。「転移」はtransfarの意味ですが能動的かつ受動的な現象というのは行為を超えているからなあ、など考えました。というわけで、以下転記です(なんだかここに移す方が楽な気がする。手続きの数が少ないんだな)。ところで、これを書いた直後に読んだ東畑開人さんの論考、心理学を俯瞰する力作でした。記事の中身とは関係ないのですが。はい

以下転記。

「治療は文化である」という言葉、というか、そういう思想(?)を嫌う人がいるのを知っている。大抵の場合、それは結構個人的な事情からだったりするわけだけど、みえない人たちの口コミや☆の数が情報として優先されがちな現代、たとえばある程度有名な人が「治療は文化ではない」とか呟いたら、一気にその意見が優勢になったりするのかもしれない。

本日、雑誌『臨床心理学増刊号』として『治療は文化であるー治癒と臨床の民族誌』が発売された。魅力的な書き手たち(私は同業者の東畑開人氏の論考目当て)によって書かれたこの雑誌は「治療は文化である」ということをこれからの共通理解にするのだろうか。

マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」、カルロ・ロヴェッリの「時間は存在しない」など、こちらが自明としているものを否定する書名は「え?どういうこと?」とこちらを少し前のめりにさせる。でも「治療は文化である」はどうだろう。「そうね」とあっさり受け入れる人もいれば、反発を覚える人もいるだろう。いずれにしてもそんなにセンセーショナルなフレーズではないと思う。もしこの雑誌が「治療は文化ではない」だったらどうだろう。反応は変わらない気がする。そのくらい「治療」とか「文化」というものは曖昧に使われてきた言葉のような気もする。

インパクトは素材がどれだけ自明かによる。もちろん治療過程で患者さんや治療者が感じるインパクトとはじわじわ感じられるものだったりするから書名に対するのとは異なるけど、精神分析の場合。

今日も暑かったけれど秋の風を感じた。立秋の時に聞いた秋の虫の音はインパクトあったけど今や「お、今日も」という感じ。

心理療法を再考させてくれる東畑さんのから読むことにしよう。

「好き」を失うこと

自分が好きなものや場所を奪われることほど辛いものはない。だって好きなものは何かを捨てた体験の延長にあるから。

自己肯定感とか承認欲求という言葉を私はあまり使わないが多くの方が使うのを聞いてきた。

多くの場合、それは非対称の関係においてその人より「上」と「社会」が見なすような人の存在が想定されていた。

いつのまにか内面化されるその存在を、あるいはそういう存在の視線を気にするあまり、自分が何を好きで、何を欲望しているのかを知ることができなくなっている人もいる。それらを奪われたと感じている人もいる。

「趣味がない」という悩みも多く聞いてきた。英会話を習っていたときに、hobbyは日常の延長というより結構本格的な遊びだからfree timeに気楽にするなにかではない、と教えてもらった。そう考えると「趣味がない」というのは悩むことではないかもしれない。

一方、ちょっとした時間にそれをするとほんのり幸せになったり、ちょっと楽しくなったりするものがない、つまりコーピングスキルが少ないと確かにそれはちょっと辛いかもしれない。もしそうなら、それは周りの人に見つけてもらうといいかもしれない。意外と自分で気付いていないだけで、「あなたはいつもそれやってるとき楽しそうだよ」というものがあって、言われてみればそうだ、ということはひとつやふたつはあるものだ。

朝焼けのはじまりに気持ちが少し落ち着く。今日も玄関を出られてほっとする。ちょっとした寄り道にちょっとワクワクする。寒いのに小さな花にほっこりした・・。「スキル」というまでもなく、私たちは小さなことを発見してあたたかな気持ちになる能力を持っている。誰でも。

なにかを好きになったり、楽しんだり、些細なことであっても、見えないなにかであっても、その価値を信じるというのは、絶対に誰にも奪えない権利なので堂々と大切にしていきたい。

でも奪われてしまう「好き」もある。

それが本当に好きで、それを楽しむためならいろんなことを我慢できて、いろんな不安を希望に変えられるほどにそれを信じられる。それが奪われることがある。正確にいえば「好き」という気持ちは奪われない。ただ、場所がなくなったり、身体が動かなくなったり、様々な事情に追い詰められ、それを手放したほうが安全なときもある。とりあえずこころや身体が壊れないことをなによりも優先させなくてはいけないときがある。

もちろんその場合も小さなコーピングスキルを最大限発揮させてなんとかやり過ごしたり生き残ろうとする無意識的な力も私たちは持っている。それに「いずれまた」と祈ってくれる人もいるかもしれない。

でも意識的には相当に絶望するだろう。いろんなことを犠牲にして愛してきたものやことを失うことは、生きていく気力を奪われることと同じだ。これを大切にするためにここまでしてきたのに、というこれまでの喪失が顔を出す。好きなものがあるからなんとか耐えられてきた痛みがじわじわと再燃する。

とにかく耐えること、持ちこたえること、今の時代、そんなギリギリのところに立たされている人は多いかもしれない。自分の権利を守ること、それはひとりではできるものではない。当たり前に守り合うこと、それは本当にお互いがギリギリの状況にならないと生じない瞬間かもしれない。それでもそんな瞬間を私たちは起こしうる。

そのために今日も少しだけカーテンやブラインドに隙間を作ろう。ほんの一筋でも光を浴びよう。人と会いたくなければベッドから空を眺めよう。なんとかやり過ごす、その一歩一歩が「いずれ」に向かっていることを信じられたらと願う。

花壇

臨床状況はその人と患者しか知らないことなのでそれを外に出すときにはそれとわからないように出します。それでも患者さんはご自身のことだと思うでしょう。なぜならひとりの治療者ができることはそんなに多くないですし、人が抱える問題や交流の個別性をある程度剥いでしまうと似たような姿になるからです。だから本を読んで「自分のことだ!と思った」とおっしゃる方は多いです。

一方、個別性に触れることができるのは、専門家同士のクローズドな事例検討会でしょう。専門家は専門家集団の中のひとりとして仕事をしているので自分のしている仕事を第三者にみてもらう必要があります。そこで事例を提示する立場では、私は私たちのことを話すときってこんな感じになるんだ、とか、第三の目を通すと私たちはこんな感じなのか、という学びや新たな課題を得ます。また、提示してもらう立場からは、それまでの訓練で身につけてきた基盤をたよりに、その治療者と患者あるいはクライエントの固有のあり方を発見すると同時に、精神分析過程が持つ普遍性を再発見します。ただ集団というのはなかなか難しいので、基礎に基づき、個別の実践を十分に体験している先輩や仲間との出会いがとても大切です。

そういえば私は、実践が伴っていなかった頃は、書き物には本当のことが書いてあると思っていました。困難な状況にあうと似たような事例はないか、いろんな本をひっくり返すようにして探しました。たしかに、本には大切にしなくてはいけないこと、心に響く言葉がたくさん書いてありました。私たちが面接室で体験しているようなことも書いてありました。それはそうです。最初に書いたように症状や面接室で生じることは概ね似ているのですから。でも、私は、私たちを本の中に見つけることはできませんでした。個別性というのはそういうものなのでしょう。それはどこかに書き留めておくことはできない性質のものだと私は知りました。

その後もスーパーヴィジョンを受けたり、精神分析的心理療法を受けるなかで、個別性、固有性と普遍性の往来は続きました。

休み明け、臨床は全身運動だな、と感じました。この年末年始はどこにもいかず、これまで読んだ本をパラパラとしながら、主にウィニコットばかり読んでいたので、仕事復帰もスムーズかと思っていたのですが、実際は全く違いました。何年やってても実感というのは新鮮なものです。面接中の身体とこころってこんな感じ、という実感が再び生じました。

特に精神分析の場合、頻回の設定で、カウチに横になって自由連想をする患者と、その背後に治療者がいるという二者状況は特殊な時空間をなしています。そこでは、自己と他者、日常と非日常、一回性と連続性、同一性と差異性の関係におけるふたりの運動が展開されます。昨日の私たちと今日の私たちが全く同じということはないんだな、そういう実感もそこで生まれていきます。

この個別の、ふたりに固有の体験の積み重ねが変化をもたらすためのもっとも重要なエレメントはやはりリズムであり、それを作り出すのが頻回の設定でしょう。単に回数が多いということではなく、連続していることが重要だと私は経験的に思っています。「切断」「分離」というモメントが精神分析作業を促進させること、そのような固有の体験に基づく思索によって、フロイトが導き出したのが「対象喪失」についての考えではないでしょうか。

フロイトの『喪とメランコリー』はフロイトが臨床経験を通じて達したメタサイコロジー論のひとつです。また、精神分析設定は対象喪失を身をもって体験するための仕掛けといえます。死を前提として生きている以上、喪失は免れません。そして、私とあなたが同じではないということ、別々であるということを実感することの困難や痛みも、ひとりきりでない以上、避けることはできません。だからこそ精神分析は、私たちが「対象」と出会うことで生じる「切断」「分離」、そしてこれらにまつわる感覚に対して敏感であろうとします。

私がこのサイトを「精神分析という遊び」と名付けたわけについてはちょこちょこ触れてきましたが、「遊び」というのは真剣で切実なものです。子どもたちを見ていると彼らは本当によく笑い、よく怒り、よく泣きながら遊びます。そうやって自分のこころと相手のこころ、自分たちのこころと自然に出会っていきます。そしてそれを遊びとして成立させているのが時間です。「遊びの時間」にはいずれ終わりがきます。「切断」「分離」のモメントです。それがある種の切迫感をうみ、真剣さを生じさせると同時に安心感をもたらします。これが一生続くのかあ、という感覚と遊びは無縁です。様々な価値判断もとりあえず棚上げされ、シンプルなルールでできることも多様性に開かれています。精神分析も同じです。だから私はそれを「遊び」と表現してみました。

それでは精神分析におけるルールとはなんでしょう。それが書かれているのが『フロイト技法論集』です。もちろん書き物は書き物であり、フロイトがそれを実践していたかどうかは別の話です。ルールには逸脱がつきものというだけなく、フロイトは創始者なので、何か本質的にまずいことが起き、それについて真剣に考えるプロセスなくして精神分析は生まれなかったのです。

ルールがあっても、正解はどこにも書いてありません。出会ったら始まってしまう、そしていずれ終わりが来る、そういう現実において自分として生きるということ、それを志向する、あるいは思考する方には、それについて長く厚みのある思索と実践を積み重ねてきた精神分析が役に立つでしょう。現代のスピードのなかでマイペースに花開いていくこと、即効性もなく、マイナーでプライベートな治療法である精神分析は、そういうニードに開かれた技法であり治療文化なのでしょう。

玄関脇の小さな花壇には小さな芽がたくさん出てきています。毎年「こんなに早く出てきちゃって冬を越せるのかしら」と心配になるのですが、寒い間はじっとしていてあまり大きくなりません。私たちもいろんな場所で育まれて無理なくやっていけたらいいかもしれないですね。暖かくなって小さな白い花をつけるのが楽しみです。

1月8日

今年も8日が過ぎようとしている。昨日は昭和が終わった日だったそうだ。「そうだ」というか「そういえばそうだった」と思い出す。昭和64年1月7日だった。

当時、私は今の自分がこんなであることを想像もしていなかった、と思う。ちょっとは思い描いいてたものと重なっているのだろうか。それすら忘れてしまった。フロイトにはすでに出会っていた。それは覚えている。もちろん本で。(これあえて書かないといけないのはどうかと思うけど必要な時もある。)

今こうして生きてるから過去のことを語れて、未来もなんとなくあるような気がしている。でもそれは本当は誰にもわからないことなんだよね、というのも今は以前よりずっと意識する。大切なものが増えたのかもしれない。あるいは失いたくないものが。数えられるものばかりではなくて。

生きられたはずの時間、生きられたはずの空間、無や空虚を含まない現前というものはない、というようなことをメルロ=ポンティはいった(違ったらごめんなさい)。それは私たちがこれから生きるかもしれない時間や空間のことも言っているのかもしれない。そこには常に無や空虚のような穴があると。

連綿と続いてるかのような時間と空間で時折ポツンとひとりぼっちになる。いつの間にか時代が変わっている。気付いたら自分だけ生き残っていた(死んでいたらそれすら気づけない)。そんな瞬間がそれかもしれない。

精神分析が毎日のように患者と会っていくことはそういうものと安全に出会う装置となっているように思う。精神分析における休暇の意味については以前『ピグル』(ウィニコット著)の記事を書いたときにも少し触れた。休み明け、患者さんたちが語る言葉が私に響く。

「ここがあるから」

そう言ってかろうじて持ち堪えている人たちに私たちは今日もできることを探す。そしていつも、できる限り日常を維持することを選択してきた。先のことはわからない。でもどちらにしても、これからも瀬戸際で、どうにか持ち堪えることをしていくのではないだろうか。そこで共にいる。それを可能性とよんでいくのではないだろうか。

1月8日の日めくりにはこんな句が載っていた。出会いも、すれ違いも、期待も、失望も、ささやかに中立的に体験していけたら素敵だなと思う。

遥かなる春著こちらへ来ず曲がる 山口誓子

震災後10年

もうすぐ10年ですね。

東日本大震災。

みなさんはあの日、あの時、どこで何をしていたのでしょう。

河北新報社」という新聞社を知ったのは震災があったからでした。

地方紙の発信力の重要性と必要性を知り、そういえば実家にいた頃も地方紙を読んでいたな、と思い出しました。
知っている世界と知らない世界を橋渡ししてくれる領域は、あまり吟味なく情報が拡散される現代において、特に重要かもしれません。

先日、ここで少し書きましたが、いわき市のローカルアクティビスト小松理虔さんの仕事もそういう意味でとても意義深いと思います。彼の『新復興論』(ゲンロン叢書)はぜひお勧めしたい一冊です。


彼は、被災地を当事者の言説で閉じ込めてしまわないこと(言葉は違うかもしれません)、むしろ観光地のように三人目に開かれた場所にしていくことが大切だというようなことを書いています。そして実際、いわきで外に開かれた場作りを展開されています。

「べき」や「正しさ」で自分を縛るのではなく中途半端に他者に開かれ、ともに色々な気持ちになりながらなんとなく色々やっていくこと、精神分析もそうですが、生活というのはそういう時間の積み重ねであり、それぞれの生活が大切にされる「べき」(これは「べき」でいい気がします)と思います。


あの震災からの10年間、最初は2011年5月、それから数回、避難所や仮設住宅へ出向きました。「支援」という名前で。「支援」といってもただ一緒にいさせてもらったような時間でした。

そこで出会った人たちを、見た光景を、聞いた話を私は忘れないと思います。そして何度もあとからやってくる痛みも突然溢れてくる涙も私は止められないと思いますし、その必要もないかなと感じます。

昨日も書きましたが「いずれ」と願うこころを守るために、まずは自分のこころをなんとなく開いておけたらいいなと思います、今日も。

守り守られるもの

私たち心理職の仕事のひとつに危機介入、緊急支援があります。

それらは主に事件や事故が起きたときに必要とされますが、そこには「こころは守られるべき」という前提があると思います。

こんなこといちいち書く必要などないと思いつつ「あっているよね?そうだよね?」という気持ちにもなるのが不思議です。

私たちの仕事は、危機状況のアセスメントをすると同時に、その当たり前の前提が見失われていないかどうかに注意を払うことです。

明日(もう今日ですね)東京でも緊急事態宣言が出されるようです。

なにかで区別されたり、分類されたりすることなく、誰のこころも守られるべきだ、

という当たり前の前提が共有されることを願います。

何かを諦めたり、耐えておられる方が「いずれ」と希望をもてるように具体的なサポートがあることを願います。

私たちも危機にともに立つ者として、同時に、サポートを提供する側として、できることを考え続けています。

こころは複雑なので即効性があるかと聞かれれば時々、とか部分的に、と答えざるをえないのですが、こころが非日常に覆われ、まいったり壊れたりしてしまわないように、日常を維持することを大切にするのが私たちの仕事です。

まずはそれを維持したいと思います。

守られるべき権利、守られるべきこころ、あえて言わなくても、と思いつつ忘れないように書いています。

どうかみなさん、ご健康でありますように。

「三人目」

小松理虔さんが『新復興論』(ゲンロン叢書,2018)の「おわりに」でこう書いておられます。


「一人になってどこにも行こうとしなくなるのか。二人に分かれて足踏みの議論に明け暮れるか。私たちは、とても狭い世界のなかで悶々とさせられているように見える。私たちは「三人目」を探さなければいけないのではないだろうか」


「私たちの地域づくりは、娘のような近くて遠い存在、いわば「三人目」の存在を意識してきただろうか。知らない人間は語るな。被災者でなければ分からない。福島のことは福島が決める。そんなことを娘に言ってしまったら、娘は一生、私たちが経験したことを知ろうとは思わないだろう。娘のような「三人目」の存在を意識しながら、地域づくりが行われなければならない。」


福島県いわき市小名浜で東日本大震災に被災し、原発事故を経験した小松氏。ご本人のお話を伺ったとき、その「開かれ方」に驚きましたし、安心もしました。


果たして私は、私たちは、「三人目」に対して開かれた存在になれるでしょうか。

あれこれ考えたり眠ったりしているうちに今年も早三日。また「日常」が戻ってきますね。昨年から日常もカッコ付きになってしまった気もしますが、できるだけそれぞれの日常が守られることを願ってやみません。

『フロイディアン・ステップ』

2020年3月、人数が制限される前の小寺財団セミナールームで、あるイベントに出た。福本修先生が講師をされる小寺臨床講読ワークショップ特別編、精神分析家の十川幸司先生を招いた会だった。私はワークショップ0Bとして参加したが、こじんまりとした、発言しやすいサイズと雰囲気で贅沢な時間を過ごせたと思う。今となっては特に。

さて、十川先生は2019年9月に『フロイディアン・ステップ 分析家の誕生』という本を出された。2000年からこれまで『精神分析への抵抗』(青土社)、『精神分析』(岩波書店)、『来るべき精神分析のプログラム』(講談社)において精神分析を新たな理論モデルによって基礎づけることを試みてきた十川先生の最新刊、シンプルでミニマム、かつヴィヴィッドな書き方はおなかいっぱいになりやすい私にはいつもちょうどよく、多方面から豊富に引用される文献にも自然と手が伸びた。

この『フロイディアン・ステップ』はこれまでの「なんかすごく緻密だけどちょっと不思議で新しい感じ」(個人的印象)とは異なり、とことん精緻なフロイト読解に基づいており、私たちはこれを読むとフロイトを読まざるを得なくなる。「フロイトを読む」という試みが終わりのない作業であることは、いまだに新訳が出続けることからも明白だろう。しかし、十川先生のようにフロイトの身体やリズム(この本の主題でもある)を意識して同一化しながら読んでいる人は精神分析家でも多くはないのではないだろうか。というか、私がフロイトに関する本を読んでいて思うのは、フロイトがいつも先に行ってしまって、相手はそれについていくために、あるいはついていけなくていろんな様子になっていて(転移状況だなと思う)、ビオンとベケットが連れ立っているような対等なイメージをフロイトと誰かとの間に見出しにくいのだ、私には。

でも十川先生の本にもつ印象は違う。十川先生はフロイトに敬意を払い、精神分析に対する一定の不快感を保持し続け、抵抗を試みながらその内側にとどまり続け、フロイトと対話をしている精神分析家という印象がある。したがって、こうして書き出されたものはいつも、フロイトと精神分析に対してフェアで、私が精神分析との間に、あるいはほかの書き物に感じるような興奮しすぎたりいじけすぎたりするような非対称がない。その印象は、これらの本が書かれるまでにどれだけのワークがこころの中で、あるいは患者とともになされたのだろう、という想像にも繋がる。十川先生の症例の書き方の好ましさはこのあたりにある。私は荒ぶるものはこころに置いておける、つまり何かをワークスルーしたような静かな書き手が好きなのだろう。

言い直すが、フロイトを読んでいない読者は最初はこの本の難解さに戸惑うかもしれない。しかし、本書で「理論構築においても、また臨床実践においても、集中と拡散を繰り返しつつ観察を行うこと、これがフロイトの方法の礎となっている」と書かれているように、十川先生もフロイトの言い分を優れた咀嚼力で味わい、深いところまでわけいったかと思うと、ご自身の臨床体験に戻り、視野を広げ直し、再び焦点を定めると、そこからまたフロイトとの対話を始めるという方法をとっているようにみえる。このときに私が持つフロイトと十川先生のイメージは、ビオンとベケットのそれだ。隣にいる感じがする。したがって、大人の話をそばで聞き、わからないながらも面白がっている子供の気持ちでこの本を読むことは可能だろう。非対称の二人の間にいるのはなかなか居心地が悪いが、対等な二人の間では自由が得られる。

ところで、私は楽しみにしている本はすぐに買ってすぐに読む。なぜならすぐに次の「楽しみにしている本」が出てきてしまうから。難しくてもなんでもとりあえず読む。講演会のときに途中で質問を挟まず耳をすますのと同じだ。とりあえず身体にいれて、その感触を手がかりにまた読み直す。この本もそうだった。

付箋だらけになったこの本を携えてB&Bでの十川×立木康介対談にもいった。ラカン派の立木康介さんもまた繊細でオリジナルな書き手としてとても魅力的で、昨年2020年に刊行された『女は不死である』(河出書房新社)は前作の『狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛』と合わせて精神分析における「女性的なるもの」を再発見する必要を感じる読者にお勧めしたい一冊である。立木氏の書き方には、「フランスの香り」的なものを勝手に感じてしまう。それがなんであるか私はよく知らないが、ラカンと女たちの関係の生々しさがそういうものなのではないかと想像している。

この対談も多くの点で示唆的だった。ご興味のある方は「週間読書人2020年1月24日号、対談=十川幸司×立木康介 <フロイトはいまだ読まれてはいない>『フロイディアン・ステップ』(みすず書房)刊行記念対談をお読みいただきたい。検索すればすぐに見つけることができる。

十川先生は本書でフロイトの5大症例(ハンスを除く)の再読とともに、フロイトのメタサイコロジーを、主にフロイトの中期以降(分類は本書の冒頭でされる)の方法論と概念(原欲動、ナルシシズム、自我とそれに結びつくもの)を再考する。特にこれまでの著書でも追ってきた倒錯論にはさらなる磨きをかける。ここで参照したいのは2018年に十川訳が刊行されたフロイトの『メタサイコロジー論』(講談社学術文庫)と欲動論からフロイト理論の見直しを図ったラプランシュの『精神分析における生と死』(金剛出版)である。これらにおける訳者解題は本書を読む上で大変助けとなるだろう。ビオンのα機能を意識していえば、十川先生の咀嚼力はその解題において際立っている。また、フロイトをはじめとした精神分析理論に立ち返りつつ、自分の臨床経験を深化させる、フロイト読解と臨床経験の「共振」(あとがき)、あるいはこのような二重作動は十川先生の書く仕事を貫いているといえるだろう(『来るべき精神分析のプログラム』参照)。

本書の最後には「リズム」という観点が導入される。もちろんこれもフロイトの残した問いに応える形で書かれている。「快不快の感覚に関わるものとして、量の増減だけではなく、その時間的契機(リズム)を新たな要因として導入」したフロイト 、十川先生はこれを欲動の「飼い慣らし」、分析の終結を把握するための観点として用いるなかで、精神分析過程を自由連想、リズム、治療的交流という3つの要素を用いて再定式化する。これはコロナ禍における精神分析家の仕事を考えるとき、何が失われたかを明確にしてくれる定式化でもある。

フロイト以降、クライン、ウィニコット、ラカン、ビオンをはじめとした多くの分析家が、オリジナルのメタサイコロジーを書いてきた。十川先生のこの本はそういう一冊だと思う。つまりこの本は、フロイトを通過し、それ「になった」ひとりの精神分析家のメタサイコロジーなのだ。これまで引用してきたダニエル・スターンの理論を「あまりに人間的な」モデルとして手放し、私たちの生を規定しているのは欲動であるとしたこの『フロイディアン・ステップ』は精神分析の本質にかかわる言葉の使用についても変更を迫るだろう。少なくとも私は迫られているように感じた。それを覚えておくために、これを書いてみた。本書の内容については書評が出ているだろうし、それぞれお読みいただくのが一番良いように思う。できたらこれまでの著作と連動させながら。

良いお年を

今年最後のゴミ収集日の朝です。ついでに少し歩くと「ここってこんなに広かったんだ」という更地の上空を飛行機雲が横切っていました。


保育園のちょうどお散歩の時間、ひとりが突然走り出して公園のフェンスにはりつきます。
音だけでそれとわかるほどゴミ収集車が大好き。次々に集まって声をあげています。

素早く車から降りてたくさんの袋をあっという間に車の後ろに投げ入れて、それを繰り返しながら少しずつ遠ざかる彼らに子どもたちは夢中です。

多分単に勢いにつられている子もいるのですがなんであれ平和でかわいらしい光景です。

作業をしてくれるみなさんもこの景色には慣れっこなのでしょう。「ゴミしゅーしゅーしゃさーん」と声をあげる彼らにニコニコと手を振り返してくれます。

今年もみなさんそれぞれの場所で大変お疲れ様でした。

コロナという見えざるものにかなり影響を受けた一年だったと思います。ウイルスの時間的な区切りがどうなっているのかまるでわかりませんが、年末年始が少しでもこころにゆとりを与えてくれますように。

どうぞお身体に気をつけて、良いお年をお迎えください。

とりあえず

土曜夜は会議やミーティングが多いです。

いくつかの職場をかけもちして働く心理士は少なくなく、同じ場所で働いていても勤務する曜日が違って会ったことがない、忘年会や新年会でしか会わないという同僚がいます。私の非常勤先では今年はコロナにより様々な変更があったためミーティングが頻繁になりました。いつもであれば使用する部屋は同じでもそれぞれの方法で患者さんとの時間を過ごせばよいのですが、オンラインの導入、消毒の徹底など新しい取り決めや取り組みが必要になったのが今年でした。

世界中、誰にとってもはじめての事態で、それまでのあり方をどのように変更するのか、それに伴い契約をどのように変更するのか、ということを考えるにはとりあえず集まることが必要でした。

正解のない事態。コロナ禍においてできるのは、それまでもしていた生活習慣を強化すること、いまだにそれは変わっていません。

こころの世界にも正解はありません。因果関係についてもとりあえずありがちな説明をすることはできますが変数が多いため、パターンが見出せたとしても確率の問題です。それはときにとても不安で辛かったり寂しかったり切なかったりします。

でもそんな時だからこそ共にいようとします。

そうやって想いを、思考を重ねることで共通項として浮かびあがってくるものをすくいとり、とりあえずそれを信じて行動し、その結果生じるこころの動きや事態を観察し、そこからまた試行錯誤を重ねていく。

臨床ではいつもしていることですが、何かを決定しなくてはいけないとなると少し事情が異なりますね。私のオフィスのウェブサイトは「とりあえずHP」という会社の作成ソフトを使っているのですが、この「とりあえず」がきかなくなると事態は大変になることが多いなと感じています。偶然ですがちょうどいい出会いでした。

お互いをねぎらうにもこの「とりあえず」が必要そうです。とりあえず今年も1年間お疲れ様でした。私はまだ仕事納めしていませんので、また同じことをいうかもしれませんけどとりあえず今日一日お疲れ様でした。

出会い2

小此木啓吾「フロイト その自我の軌跡」(NHKブックス)をパラパラ。

臨床をはじめてすぐに買った本。学生時代からの友人と慶應心理臨床セミナー(今は精神分析的心理臨床セミナー)に通いはじめ、小此木先生はじめ、狩野力八郎先生、丸田俊彦先生など、現在の日本の精神分析学会を支えてきてくださった先生方の講義を受けはじめた。

ご存知の通り、もうお会いできない先生も増えた。

毎週木曜日、休まず通い続けること、治療者にもっとも必要な訓練だ、と教わった。本当にそうだった。

小此木先生はとても厳しく感じる時もあったけど本当に楽しそうに精神分析について話された。

あれから20年が過ぎ、自分が自分の小さなオフィスを構え、フロイトを読む会を主催し、小此木先生の本を紹介したりしているとは。しぶとく居残る「つう」であれ、という北山修先生の笑顔も浮かぶ。北山先生はますますお元気だ、とたまたま今日非常勤先の上司と話した。

精神分析はビオンがいうとおり当事者二人による「思わしくない仕事」だということも実感している。絶望も希望も分かち難くそこにある。
ともにいることの難しさを、静かな喜びを、有限のなか果てなく続く時間に見出す。


決して簡単にはじめるものでもはじめられるものでもないこの特殊な営みを私が信じ続けられるはじまりにフロイトの書き物との出会いがあり、先生方との出会いがあり、患者さんたちや私を支えてくれるすべての人との出会いがあった。すべて偶然でも必然でもどっちでもいいけれど感謝したい。

NPOの夏

またnoteの転記。2020年6月から夏、秋とよく書いた。

これを書いたのはいつものメンバーでzoom句会をしたときだ。私は早い段階で有料プランに切り替えていたのですぐにそういう場を提供できてよかった。とはいえ、オンラインは手段で、私たちをつないだのは俳句だ。

こうしてストーブに当たりながら夏のキャンプの記事を読む。

しかも何年も前の、しかし何年も続けてきたイベントの記憶。私は随分若い頃からこのNPOで活動してきた。当時はキャンプファイヤーの熱量に圧倒されたりはしなかった。本当に若かった。

以下7月のnoteを転記。この記事にNPOの仲間たちがコメントをくれた。彼らとも長く活動を共にした。その後、それぞれに色々あった。テントという密室が今年は特に懐かしかった。

終便の出し桟橋に外寝人 花田喜佐子

兼題は外寝と火取虫。パッとキャンプが思い浮かんだのは日常でこういう景色がすでに失われているせいかもしれない。

以前、子育て支援のNPOの理事をしていた。地域の子供会や自閉症児親の会など様々な団体と連携してインクルシーブな場所づくり(今思うと目標が大きすぎてちょっと恥ずかしい)を目指して活動していた。私以外の理事はみんなその地域で育った仲間たちで、NPOの活動には彼らを小さな頃から知る親世代から彼ら自身の子供も含む世代まで本当にたくさんの方が協力してくれた。私もその地域にいくと車から名前を呼ばれたり、道で出会ってお話ししたり、今住んでいる東京の小さな町でも体験しない身近な人間関係がそこにはあった。

いつもなら8月のキャンプにむけて大忙しの時期だ。私は主に障害(主に自閉症)を持つ子どもたちが2泊3日のキャンプで安全に楽しく過ごせるように様々な準備をする担当だった。キャンプも後半になれば同じ班の子供たちがその子の障害の特徴を掴んできて(子供はそういうのが直感的で早い)上手に関わりあうので初日のような緊張感はなく、感心、安心したものだった。

夜は真っ暗になることを子供たちは意外と知らない(だから懐中電灯必携ということがピンときていない)、トイレで大きな火取虫に声をあげて出てきて、今度は数人で連れ立っていってみんなでキャーキャー言う(そして少し慣れる)。時折暗闇に響く声、テントから聞こえるヒソヒソ声。夜中見回りにいくとさらに声を潜める様子が伝わってくる。ああいう場所にいると自分が動物であることを思い出す。五感がいつもより研ぎ澄まされる。

ずいぶん長く毎夏の行事としてやってきたが、今年だったらできなかっただろう。

テントの中が暑くて外にベッドを置いて寝る人もいる。夜のキャンプ場は食糧を求めて野犬が現れたりもして怖いこともあるが、とても静かだ。大人たちも小さめの声で話す。普段はしないような話もする。ベタつく身体を濡らしたタオルで拭くと風をひんやりと感じる。

夏の季語「外寝」で一句作ろうとすると、キャンプかホームレスの人の姿を思い浮かべることはできるがそれ以外は難しい、と話し合った。最近の句会での話。それぞれの句をみんなで鑑賞し、そこから見えてくる景色を話し合う。冒頭の句は外寝にはこんな句もある、と仲間の一人が紹介してくれた一句だ。話の流れと読み方の間違いのせいでみんなが間違った方の景色を思い浮かべて大笑い。文字と音が生み出す景にはそんなこともあるから面白い。時代が変わればまた異なる景が見えるかもしれない。

「外寝」、ワイルドだけど自然の行為な気もする。東京にいるからなおさらかもしれないけど、道路にも公園にも様々な規制があって自然に腰をおろせる場所も減った。私のオフィスのそばにある緑豊かな新宿中央公園も工事中だ。古ぼけたベンチにみんな少しずつ離れて座り各々好きなことをする時間はいつまで守られるのだろう。公園のお隣にそびえたつ都庁では三密禁止だが、ここでは自然と守られてきたことだ。空間があれば自然とそうなる。

キャンプでは一日目の夜は子供も大人も遅くまで起きているが、二日目の夜はみんなぐっすり。火取虫にも恐々しながらも声を上げない。願わくば、ウィルスや自然災害とは別の形でこんな風に自然と共にいる時間をもちたい。俳句のようになんでもない景色を大切にしたい。

キャンプ三日目の朝のみんなは不思議とマイペースで良い感じ。句会のあとの私たちも良い感じだ。感覚を使い、こころを開き、言葉にしようと試みる。日常は気づかないうちにどんどん窮屈になっているのかもしれない。本当は適応などしないほうがいい場所もあるのかもしれない。

月曜日、東京の日常が始まった。

みんながマスクをつけた満員電車はちょっと異様。マスクの下で考えていることは多様に違いないけど。

外寝人生きてをるかといぶかりぬ  下村梅子

言葉とこころ

オフィスのウェブサイトを整理した。今年は(さっきから「昨年は」と書いてしまう。まだ今年終わってなかった)それまで持っていたブログにアクセスできなくなったのでnoteにダラダラ書き連ねていたが、運営の方で色々あるらしいので友人がかっこいいサイトを作っていたwordpressを使い始めた。でもテンプレートの使い方がわからないので(きちんと勉強すればいいのだろうけど)結局「ブランク」のテンプレート(?)にこうして書き連ねている。まぁ、私はとりあえず書く、ということをしたいだけなのでこれでよしとしよう。オフィスのサイトも今のままでよしとしよう。

その整理をするなかで、2020年8月のnoteを見つけた。なんとか冬になっても仕事してるよ、コロナの状況は変わらないけど、と夏の自分に言いたい。コロナがこうしてダラダラ書かせてるのかもしれないけどね。

と、私は書き始めるとキリがないので、転記。精神分析における言葉、私が最も関心を持っている世界についてそのとき思ったことを書いてみました。

2020年8月note

今、私を取り囲む本や書類の上や間や床やいろんなところに何かを書き散らかしたメモが散らかっている。自分の字なのにまるで読めないのだから残しておく意味などないのだけどなぜ捨てないのか。

いずれ読める日が来るとでも?そんなはずはない。ならいずれ読んでくれる誰かが現れるとでも?それはありうるかもしれない。周りの人に見せたら色々と解読してくれるに違いない。でも私がそれをしない。それにそれをメモする私はまたその読み方を忘れそうだ。

私にとってメモはその場限りの言葉なんだ、きっと。必要なのは内容じゃない。でも多分、だから大事で捨てられない。実際にはいずれ時がきたら捨てるのだけど。昔、日記や詩や文章を大量に書いたノートを全て捨てたのと同じように。一部はなぜか欲しいといってくれた友人にあげたけど。それにあれは読める字だったけど。

精神分析は主に言葉を使う。あえて「言語的」「非言語的」と分類する必要がないほど言葉をその人の全体として扱う。沈黙も息遣いも振る舞いも体験のすべてをあえていうなら前言語的な、赤ちゃんの泣き声のようなものとして扱う。なにがなんだかわからないのだけど、確実に私になにか伝えていて、どこか切迫感を帯びているまだカッコ付きの(言葉)。あるいは特になにが言いたいわけでもなさそうなんだけど、一緒にいるから出ているような、シャボン玉をただ吹いているような、春風に深呼吸するような(言葉)。

精神分析に限らず、どの治療法も万人向けではない。どれも誰にでも役に立つ部分を持ってはいるけれど実際に治療を受けるということは自分の生活の時間やお金といった現実的な側面を抜きには考えられない。だからその効果は簡単に比較できるはずもなく、その人が受けた治療を外側から簡単に価値づけすることは難しい。

特に精神分析ほど量的なものに馴染まないものはない。無意識を想定する精神分析はそこを無時間と考えるので、無×α=??なのだ。それでもそれまでの治療や何らかのきっかけからそこに意味や価値を見出した一定数の方たちは、そこにかけられる時間とお金を準備して頻度をあげることを希望する。そのとき精神分析は治療というより「精神分析」としか言いようのないものになるのだろう。「カウンセリングでは」というよりは「分析では」という表現を使うようになる。

言葉とこころの不確かな関係。私が読めないメモをなんとなくそばに置いておくのもそこに私のこころが残っている気がするからかもしれない。

言葉とこころの関係に悩み、そのどうしようもなさをどうにかしたい、という方は多い。どうにもならないことをどうにかしたい、というとき、それは原因探しや裁きや答え合わせを切望するこころとして解釈することもできるかもしれないが、不確かさや不快さに寛容でありたいという願いとして捉えることもできるだろう。

昔、とても嫌われて、あるいは嫌いになって、もしくは憎しみあって別れた人がいるとして、その人のことを語る言葉について考えてみる。それは時間と場所によって変化するだろう。外ではこう言ったけどここではこう言ってる、とか、あの時はこう思ったのに今はこう思う、どうしてだろう、など。こういうことは臨床場面でもしばしば語られる。

こんな風に、人のこころと言葉が一対一対応ではないことは誰もが知っていそうなのに、喧嘩をしたときに「ごめんね」を言わされて仲直りしたように見せかけたり思いこむようなことも私たちはしょっちゅうしている気もする。

自分のこころと言葉の不確かさ。精神分析はそことともにある。哲学者が心理士以上に精神分析を引用するのもそれが人間の全体を現すことをよく知っているからだろう。彼らもまた外からは不毛といわれても思索を止めることはしない。

私は今日もメモを書きつけるかもしれない。そしてまたそのままにして、そのうちますます読めなくなって、いずれどんな時に書かれたメモかも忘れるのかもしれない。それでもそのときそこで、あるいは今ここで私が考えていることは完全に消え去ることはないと思う。ここはこうして読める字に変換してくれるけど、たとえこのnoteをすべて消去したとしても同じことだ。痕跡を残し、またどこかでそれと出会う。その繰り返しをこれからもしていくのだろう。

暑くて移動が億劫だけどもう行かなくては。

もちもの

2020年7月10日朝に書いたnoteを転記。今年の夏はどんなだったか・・。休みをとってもどこに行くこともなく、生き残ってほしいお店のテイクアウトをしていた。

ひとつひとつの出来事が私を少しずつ変えているのだろうけど、考えていることはそんなにすぐに変わることはないみたい。当たり前かな。夏の朝に書いたものを冬の夕方に投稿するのも少し変な感じだけど以下転記。

スクールカウンセラー(SC)をしていた頃、保護者や生徒、教員向けのお便りを書くのが好きだった。ここで書くノリとそれは似ている。

歳のせいか、患者さんや自分との精神分析的作業のせいか、自分の持ちもので何かをすることが楽になった。ないものはない、ということに対して悪あがきしなくなった。自分に対して「もっと何かあるはず」と思うのも素敵なことだけど、今は自分の持ちものをこうして使ってみることで何かしら見出せたら嬉しいな、という感じ。朝のバタバタの中でこうしてサラサラと書くことは自分の少ない持ち物をフルレンジで使うためのウォーミングアップみたいなものだ。というのは今思いついただけだけど書いてみるといよいよそんなつもりになってくる。特に何も考えずたまった言葉をカラダ全体に行き渡らせるように循環させる。私にとってこれを書くことはそんな作業なのだろう。

精神分析は治療者の方も精神分析(週4日以上、カウチ で自由連想)を受けることが訓練の基本なのだけど、それは身ひとつでやっているからだと思う。認知行動療法みたいに二人をつなぐツールがあるわけではないし、療育みたいに教材も使わなないし、短期療法みたいに言葉を使った戦略があるわけでもない。

ただ聞くことsimply listen、フロイトの技法論集にある言葉だ。必要な持ちものはこころと身体。それで全部。オリンパスの宣伝文句を思い浮かべる。ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ。

だからトレーニングをする。こちらが患者さんに提供するものを患者さんがどう体験するか、そこにできる限り開かれた状態でいるために、自分も精神分析を受けて十分に自分のこころを身体に染み渡らせ、自分の中で異物感がなくなるほどに馴染ませておく。患者さんが使える存在であるように。

自分の持ちものなのに私たちのこころと身体は傷つきやすいしコントロールが難しいことが多い。一方で傷ついても放っておけるくらいの防衛機制も持っている。現実を認識する一方で否認するこころ、そして小さな傷なら手当てを必要としない身体を持っている。フロイトの遺稿「防衛過程における自我分裂」で書かれた「自我の裂け目」を思い起こす(画像はこの論文が入っている『フロイト全集22』から)。

こころと身体、セットで存在するそれが何をどう受け取ったり反応したりするのか、週4日、分析家のそばで横になって連想するということはどういうことか、人と一緒にいるというのはどんな感じか、自分は本当は何を考えているのか、これらは全部受けてみなければわからない。受けてみてもわからないかもしれない。わからないことがわかる体験も体験なくして成立しない。

自分が食べたこともないものを「おいしいから食べてみて」とはいえない。だから「こんなのがあるけどどうかしら」といえるようにトレーニングする。しかもこの技法って答えを出すことを目的にしていないから、どちらかというと「まぁ悪くないな、私は結構好きだな」というものを作るプロセスを共に歩むということをやっている感じなので、提供者側がその意義を十分に知っておかないと不味いことになる可能性がある。身ひとつでお金をいただくということは簡単ではない。

ということでウォーミングアップ終了。今日の自分はどれだけ使える自分になっているかもやってみないとわからない。とりあえず日常をはじめよう。

精神分析的心理療法とは

臨床心理士になって20年、様々な領域の職場で働きながら、毎週1回、同じ曜日、同じ時間に会う面接を続けてきました。今は、週1、2回、あるいは4回、患者さんやクライエントと、カウチ あるいは対面で、自由連想の方法を使って行う面接がメインですが、当初は、固定枠を持てる職場は少なく、週一回固定枠では10ケースも持っていなかったように思います。ただ、少しでもそれを持てたことは本やセミナーで学んだことに実質を与えてくれました。

そして、そこを基盤にして細々と、限られた資源の中で、そこを環境として安全な場所にしていくこと、何が人のこころを揺らしたり脅かしたりするのか、ということを考え、何を提供し、何を控えるかなど、構造化、マネージメント、コンサルテーションの重要性に気づき、試行錯誤を重ねていきました。

30代になると、自分も週1日、2日の精神分析的心理療法を受け、スーパーヴィジョンを重ね、自分自身も多くのケースを担当するようになり、ようやく精神分析的心理療法ってこういうものなんだ、ということを実感できるようになりました。

さらに、精神分析家になるための訓練に入ってからは、そうやって少しずつわかってきた精神分析的心理療法を基礎づけている精神分析と直に触れるようになり、フロイトの症例にも精神分析を生み出した生の体験として出会い直し、開業し、実践を重ね、それらに通底する精神分析の普遍性を感じることができるようになってきました。

精神分析はとても長く、苦痛を伴う体験ですが、驚きの連続でもあります。それを「美しい」体験という人もいます。

このように精神分析を体験しながら精神分析や精神分析的な実践を行なうと、それらはこれまでよりもたしかな技法として手応えを持ち始めました。職人と同じで、訓練を受けている人の指導を受けながら見様見真似で行なってきたそれは、言葉にしてしまえば下記のようにシンプルなもののような気がしています。

以下はプライベートオフィスでの精神分析的心理療法をご希望の方に向けたご案内です。オフィスのWEBサイトにも載せています。https://www.amipa-office.com/cont1/main.html

たどり着くのはいつもシンプルなことなんですね(これも実感)。

ーこんな場合にー

人は誰でもなんらかの違和感や不自由さを抱えています。
それがあまり気にならない方もいれば、それらにとらわれて身動きが取れなくなっている方もおられるでしょう。

当オフィスでは、もしそのようなことでお困りの場合、ご自身のとらわれについて考え、変化をもたらしていく方法として精神分析的心理療法をご提案することがあります。

ーたとえばー

たとえば、いつも自分はこういう場面で失敗する、いつも自分はこういう人とうまくいかない、と頭ではわかっているのに苦しむばかりだったり、その結果、不安や抑うつなどの症状を呈したり、なんらかの不適応をおこしている場合、かりそめの励ましやその場しのぎの対処ではもうどうにもならないと感じていらっしゃる方も多いでしょう。

そのようなとらわれたこころの状態から自由になりたい、別の可能性を見出したいとお考えの方に精神分析的心理療法はお役に立つと思います。 

ー方法ー

この方法は、自分でもよくわからない自分のこころの一部と出会うために、こころの状態に耳を澄まし観察してみること、そして頭に浮かんできたことを特定の他者にむけて自由に言葉にしてみることを大切にします。 

ひとりではなく他者とともに、みなさんがより自分らしく生活していくためにそのような時間と場所をもつことはきっと本質的な変化と新しい出会いをもたらしてくれることでしょう。 

ーアドバイスは難しいー

同時に、この方法は、考え方や対処方法にいわゆる「正解」があるとは考えていないことを示してもいます。
そのため即効性のあるアドバイスを必要とされる方にはお役にたてないと思います。

アドバイスというものはとても難しく、「一般的にはこうかもしれない」ということはお伝えできても、単に個人の主観的な意見を押し付けてしまう危険性を孕んでいるように感じます。 

法律に反することなどはお互いのために禁止事項になりますが、生き方、考え方については誰かが答えを持っているわけではないと私は考えております。 

そのため、問題を整理したうえで一般論をお伝えすることはありますが、それ以上のアドバイス、ましてや「即効性のあるアドバイス」は難しいと思うのです。 

ー定期的で継続的な時間、少なくないお金を必要としますー

また、精神分析的心理療法の場合、ある程度長い期間、定期的で継続的な時間(週1日以上)を維持することが必要になるため、お受けになる方にも一定の時間を確保していただく必要があり、それに伴うお金も必要になります。

ー別の方法をご提案させていただくこともありますー 

このようにコストがかかるうえに、これまで知らなかった自分の一部と出会い、情緒的に触れ合うプロセスは決して楽ではないため、状況や状態によっては負担が大きく、ご希望されても始めないほうがよい場合もありうるでしょう。

そこで、ご自身の現在のこころの状態が必要としているものを明らかにするために、最初は見立てのための面接を数回行うことにしています。 

そのうえで精神分析あるいは精神分析的心理療法をご提案することもあれば、別の方法をご提案したり、別の機関をご紹介することもあります。

まずはそれぞれのお話によく耳を傾けることから始めたいと考えています。 

ー低料金での精神分析ー
週4日か5日、寝椅子に横になって行う精神分析をご希望の方は、
私は現在、精神分析家候補生ですので通常より低料金(1回2000円~5000円)でお引き受けしております。

日本精神分析協会のHPもご参考になさってください。
http://www.jpas.jp/treatment.html

「心理」の仕事と治療文化

日本の「心理」は、いわゆる折衷派が多い。「心理」と書いたのは職場でこう呼ばれることが多かったからだ。単科精神科病院で働いていた頃は患者さんにも「心理の岡本先生」と呼ばれていたし、先生も「ちょっと心理と話してきて」といっていた。心理職同士でも「日本の心理は」とかいうことがある。「心理」=「心理士」が通じるのはどこまでだろう。

それはそうと、日本の「心理」はいわゆる折衷派が多い。ここでいう「折衷派」は技法としてそれを名乗っている人たちではなく、いろんな技法のエッセンスを取り出して使用している人たちのことを指すと思ってほしい。

「心理」が使う治療技法には、精神分析、分析心理学、クライエント中心療法、行動療法、認知行動療法、家族療法、コミュニティ心理学、遊戯療法、集団療法など色々あるが、ほとんどの臨床心理士は、それをカッコ付きのものとして使っている。でもそれらがどんな基礎仮説をもった理論モデルかくらいは説明できると思う。全般的に勉強するから。

日本の場合、あえていうなら何を専門にしているのか、と聞かれたらどうなのだろう。ゼミの恩師が何を基礎としているかによって口頭伝承的に治療文化の選択がなされていることが多いのかもしれない。

そしてそれは何も学んでいないよりははるかに重要であることは間違いない。

いわゆる「カウンセリング」は、理論以前に心理臨床家としての常識を持っていることで十分効果をあげることができる。そのため、多くの場合、患者もしくはクライアントのこころの世界と出会うときに大切にしている事柄はほとんど変わらない。

津川律子先生が、2007年9月発行の雑誌『臨床心理学』の連続講座で、日本の精神分析的臨床家である馬場禮子先生の『精神分析的心理療法の実践 クライエントに出会う前に』を引用して「これが精神分析??と思う読者がいても不思議がないくらい心理臨床家として常識的な内容である」と書いているが、そうなのである。

人のこころと出会うのにそんなに様々な道具立てがあるわけではない。まず見立てをしましょう、ということである。そしてそれこそが難しく、それは学派以前のことである。岩崎学術出版社のHPには馬場先生のこの本について「学派を超えて通用する心理療法の基本とその技術」という説明をつけている。つまり、折衷派の心理カウンセリングが日本の「心理」の王道なのだろう。

一方、治療文化は口頭伝承というより体験知の集積でもあるため、その文化に十分に馴染むことが必要になる。精神分析の場合でいえば、それは、その学問がそれであるための条件のもと、患者-治療者を両方の立場で体験することにほかならない。IPAの精神分析だったら、基本条件は週4日以上、カウチで自由連想をすることである。

規定された基盤で固有のこころをもった相手と自分を出逢わせる。それが文化に生命を与え、基盤はさらに強固になっていくのだろう。

もちろんその逆もあるかもしれない。基盤の成り立ちを染み込ませるのではなく、折衷派のつねとして、その学派の部分を誤って使用することで、学問の基盤自体が危うくなることも。

観光客がその土地の文化資源を活用し、方言もうまく使いこなし、いつのまにかその土地に根付くことだってあるだろう。しかし、それで観光客がいなくなってしまったらその土地はどうなるだろうか。あるいはその土地に敬意を払わない観光客ばかり集まってしまったらどうなるのだろう。

どの治療文化にも「良い観光客」が必要だ。全国を旅してきた私は「観光客」の側からそう思う。精神分析に関しては私はもはや観光客ではない。毎日都会の高層ビル群に紛れた小さな部屋でカウチ の横に座り続ける精神分析という文化を選んだ私はいずれそれが外に開いていかなくてはならないのだろう。今はまだ訓練中なので静かに繭の中にいるようなものだが。

松木邦裕先生が『不在論 根源的苦痛の精神分析』(創元社)で描き出したように、精神分析は最初から知っていたはずの「不在」と出会うために、そのプロセスにおける根源的な苦痛をふたりで持ち堪えることに重きをおく。設定とプロセスは常にセットであるために変更に対しては不寛容だ。こころは小さな変化にも大きく反応することを体験的に知っている。だから時間をかけて少しずつ自分を育む。

何かを選ぶことは何かを失うこと。育つとはそういうことだ。そこで生きることを決めたのならば、喪失を十分に体験したい。もしかしたらその体験を生きることが伝えることになるのかもしれないから。

精神分析というプレイ

以前、noteで「精神分析というプレイ」という記事を書きました。私は精神分析のなかでも対象関係論、特にウィニコットの理論に馴染みがあるのでこの「プレイ」もこのサイトの名前にある「遊び」もウィニコットのplayを想定しています。

playをどう訳すか、ということについてはよく議論になるところですが、何度もグルグルした結果、ここではカッコ付きの「遊び」にすることにしました。

以下、noteに書いた文章に少し加筆しました。なにか「決め台詞」について考えていたらしい日の記事です。

決めのセリフというと決め台詞と少しニュアンスが違いますね。決め台詞というと「出た!」という感じがするけど(多分それぞれに思い浮かぶ台詞は違うでしょう)決めの台詞というとなんだかもう少し個人に向けられた感じ。そんなことないかもしれないけどそんな気がしました。

精神分析はアセスメントのあと始まってしまうと認知行動療法(CBT)のようにパッケージがありません。なので、その先は個々の患者と治療者の言葉に委ねられていきます。

精神分析は、生きることと死ぬこと、あるいは愛と憎しみの瀬戸際、子どもの性と大人の性の瀬戸際で人のこころを描き出してきました。そこには俯瞰してみれば似たような、近づいてみればまるで違う世界が存在しています。そのため、お互いが使用する言葉も似ているようでまるで違ったりします。決め台詞は共有されないかもしれません。

日本の精神分析家の北山修先生が「きたやまおさむ」として紡ぐ歌詞と、精神分析家として語る言葉の違いは多くの人に通じる例かもしれません。二者言語と三者言語。

さらにいえば、患者と治療者がそのセッションで使用する言葉はその場限りと普遍性の両方を含む固有の言葉のはずです。

同じ言葉に潜む距離、それが実感されるまでには長い時間がかかります。

また、大抵の治療はお金がかかりますが、精神分析はそういった長い時間に伴った多くのお金がかかります。これは、それで生活をしている専門家の時間を買っているから、といえばそうですし、その専門知を、その存在を守るため、といえばそうなのかもしれません。ただ、これらの説明は一面的というか、専門家の側に立った言い方のようにも感じます。もちろん患者はいつでも辞めることができますので、そんなことはしたくないよ、となればやめればいいわけですが。

でもどうでしょう。私たちはそんなにはっきりキッパリした存在でしょうか。むしろ精神分析を受けにくる方は、自分のこころの曖昧でぐちゃぐちゃした部分に困っている方ばかりではないでしょうか。

そういえばこれは北山先生も強調するところですし、お金のことも『心の消化と排出』(作品社)という本に書いてあります。夏のブックフェアで『居るのはつらいよ』(医学書院/シリーズ ケアをひらく)の東畑開人さんも選んでおられたのでご存知の方も多いかもしれません。

お金を払う、お金をもらう、ということについて私たちは普段そんなに意識的ではないかもしれません。私がよく知る心理職の間でも、同じ職種でこんなにお給料が違うのになんとなく理由をつけて済ませていることが多い印象があります。

親子の間でも子どもの側は親がどんなふうに自分にお金をかけているかについてあまりよく知らないでしょう。本来ならお金の話はある程度の年齢までは知る必要もないかもしれません。

ここで、子どもの精神分析的心理療法の場合を考えてみます。お金を払ってくださるのは保護者です。ということは、保護者が払わないと決めたら治療はそこで終わる場合もあるということです。そのときはじめてお金の問題が患者である子どもと治療者の間に切実な問題として立ち上がってくることがあります。私は、この局面がとても精神分析らしいと思っています。曖昧さを、どうにもならなさを、どうにかしようともがくふたりにこれまでとは異なる言葉が生まれてくるチャンスだから。切実な問題は二人を切り離しも近づかせたりもするのです。

さて、大人の精神分析の場合も、プロセスは少し異なりますが、時間とお金と言語という、形がありそうなのにあまりに曖昧で多義的なものに患者と治療者は出会っていきます。

もし訓練でこの部分が切り離されたらそれは精神分析ではないだろうと私は思います。セッションの頻度などの変数で比較する以前に。

長い期間、お金を払い続けたり、いただき続けたりするなかでお互いの生を繋ぎながら見えてくるのは、私たちがいかに曖昧なつながりを信じて生きているかということです。そしてそのつながりは関係性によって名前を変えます。それが繋がりになるか搾取になるか、今はこうでもいずれは別の言葉になるのか、こころも言葉も揺れ続けます。とても大変で切ないことです。

精神分析は転移ー逆転移という過去と現在が同期したり切断したりされる時空で行われるものなので、とにかくいろんなことが起きてしまうようです。これはお互いの真剣なプレイであって、「すること」以外には共有の可能性は低く、精神分析におけるふたりのあいだに決めのセリフは多分、ボルヘスのいうように身も蓋もないそれ自体ということになるのでは、というのが今のところの私の仮説です。

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