『フロイディアン・ステップ』

2020年3月、人数が制限される前の小寺財団セミナールームで、あるイベントに出た。福本修先生が講師をされる小寺臨床講読ワークショップ特別編、精神分析家の十川幸司先生を招いた会だった。私はワークショップ0Bとして参加したが、こじんまりとした、発言しやすいサイズと雰囲気で贅沢な時間を過ごせたと思う。今となっては特に。

さて、十川先生は2019年9月に『フロイディアン・ステップ 分析家の誕生』という本を出された。2000年からこれまで『精神分析への抵抗』(青土社)、『精神分析』(岩波書店)、『来るべき精神分析のプログラム』(講談社)において精神分析を新たな理論モデルによって基礎づけることを試みてきた十川先生の最新刊、シンプルでミニマム、かつヴィヴィッドな書き方はおなかいっぱいになりやすい私にはいつもちょうどよく、多方面から豊富に引用される文献にも自然と手が伸びた。

この『フロイディアン・ステップ』はこれまでの「なんかすごく緻密だけどちょっと不思議で新しい感じ」(個人的印象)とは異なり、とことん精緻なフロイト読解に基づいており、私たちはこれを読むとフロイトを読まざるを得なくなる。「フロイトを読む」という試みが終わりのない作業であることは、いまだに新訳が出続けることからも明白だろう。しかし、十川先生のようにフロイトの身体やリズム(この本の主題でもある)を意識して同一化しながら読んでいる人は精神分析家でも多くはないのではないだろうか。というか、私がフロイトに関する本を読んでいて思うのは、フロイトがいつも先に行ってしまって、相手はそれについていくために、あるいはついていけなくていろんな様子になっていて(転移状況だなと思う)、ビオンとベケットが連れ立っているような対等なイメージをフロイトと誰かとの間に見出しにくいのだ、私には。

でも十川先生の本にもつ印象は違う。十川先生はフロイトに敬意を払い、精神分析に対する一定の不快感を保持し続け、抵抗を試みながらその内側にとどまり続け、フロイトと対話をしている精神分析家という印象がある。したがって、こうして書き出されたものはいつも、フロイトと精神分析に対してフェアで、私が精神分析との間に、あるいはほかの書き物に感じるような興奮しすぎたりいじけすぎたりするような非対称がない。その印象は、これらの本が書かれるまでにどれだけのワークがこころの中で、あるいは患者とともになされたのだろう、という想像にも繋がる。十川先生の症例の書き方の好ましさはこのあたりにある。私は荒ぶるものはこころに置いておける、つまり何かをワークスルーしたような静かな書き手が好きなのだろう。

言い直すが、フロイトを読んでいない読者は最初はこの本の難解さに戸惑うかもしれない。しかし、本書で「理論構築においても、また臨床実践においても、集中と拡散を繰り返しつつ観察を行うこと、これがフロイトの方法の礎となっている」と書かれているように、十川先生もフロイトの言い分を優れた咀嚼力で味わい、深いところまでわけいったかと思うと、ご自身の臨床体験に戻り、視野を広げ直し、再び焦点を定めると、そこからまたフロイトとの対話を始めるという方法をとっているようにみえる。このときに私が持つフロイトと十川先生のイメージは、ビオンとベケットのそれだ。隣にいる感じがする。したがって、大人の話をそばで聞き、わからないながらも面白がっている子供の気持ちでこの本を読むことは可能だろう。非対称の二人の間にいるのはなかなか居心地が悪いが、対等な二人の間では自由が得られる。

ところで、私は楽しみにしている本はすぐに買ってすぐに読む。なぜならすぐに次の「楽しみにしている本」が出てきてしまうから。難しくてもなんでもとりあえず読む。講演会のときに途中で質問を挟まず耳をすますのと同じだ。とりあえず身体にいれて、その感触を手がかりにまた読み直す。この本もそうだった。

付箋だらけになったこの本を携えてB&Bでの十川×立木康介対談にもいった。ラカン派の立木康介さんもまた繊細でオリジナルな書き手としてとても魅力的で、昨年2020年に刊行された『女は不死である』(河出書房新社)は前作の『狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛』と合わせて精神分析における「女性的なるもの」を再発見する必要を感じる読者にお勧めしたい一冊である。立木氏の書き方には、「フランスの香り」的なものを勝手に感じてしまう。それがなんであるか私はよく知らないが、ラカンと女たちの関係の生々しさがそういうものなのではないかと想像している。

この対談も多くの点で示唆的だった。ご興味のある方は「週間読書人2020年1月24日号、対談=十川幸司×立木康介 <フロイトはいまだ読まれてはいない>『フロイディアン・ステップ』(みすず書房)刊行記念対談をお読みいただきたい。検索すればすぐに見つけることができる。

十川先生は本書でフロイトの5大症例(ハンスを除く)の再読とともに、フロイトのメタサイコロジーを、主にフロイトの中期以降(分類は本書の冒頭でされる)の方法論と概念(原欲動、ナルシシズム、自我とそれに結びつくもの)を再考する。特にこれまでの著書でも追ってきた倒錯論にはさらなる磨きをかける。ここで参照したいのは2018年に十川訳が刊行されたフロイトの『メタサイコロジー論』(講談社学術文庫)と欲動論からフロイト理論の見直しを図ったラプランシュの『精神分析における生と死』(金剛出版)である。これらにおける訳者解題は本書を読む上で大変助けとなるだろう。ビオンのα機能を意識していえば、十川先生の咀嚼力はその解題において際立っている。また、フロイトをはじめとした精神分析理論に立ち返りつつ、自分の臨床経験を深化させる、フロイト読解と臨床経験の「共振」(あとがき)、あるいはこのような二重作動は十川先生の書く仕事を貫いているといえるだろう(『来るべき精神分析のプログラム』参照)。

本書の最後には「リズム」という観点が導入される。もちろんこれもフロイトの残した問いに応える形で書かれている。「快不快の感覚に関わるものとして、量の増減だけではなく、その時間的契機(リズム)を新たな要因として導入」したフロイト 、十川先生はこれを欲動の「飼い慣らし」、分析の終結を把握するための観点として用いるなかで、精神分析過程を自由連想、リズム、治療的交流という3つの要素を用いて再定式化する。これはコロナ禍における精神分析家の仕事を考えるとき、何が失われたかを明確にしてくれる定式化でもある。

フロイト以降、クライン、ウィニコット、ラカン、ビオンをはじめとした多くの分析家が、オリジナルのメタサイコロジーを書いてきた。十川先生のこの本はそういう一冊だと思う。つまりこの本は、フロイトを通過し、それ「になった」ひとりの精神分析家のメタサイコロジーなのだ。これまで引用してきたダニエル・スターンの理論を「あまりに人間的な」モデルとして手放し、私たちの生を規定しているのは欲動であるとしたこの『フロイディアン・ステップ』は精神分析の本質にかかわる言葉の使用についても変更を迫るだろう。少なくとも私は迫られているように感じた。それを覚えておくために、これを書いてみた。本書の内容については書評が出ているだろうし、それぞれお読みいただくのが一番良いように思う。できたらこれまでの著作と連動させながら。

投稿者: おかもとあみ

臨床心理士/日本精神分析協会候補生の岡本亜美と申します。 https://aminooffice.wordpress.com/  https://www.amipa-office.com/index.html

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